菜根譚41、雨降って地固まる(秦帝国の瓦解について)





 「苦しんだり楽しんだりして刻苦し、その修練が極まった後に福を為す者は、その福を久しく享受することができる。
 疑ったり信じたりして勘案し、それが極まった後に知を為す者の知というのは、初めて真だということができる」


 ・沈思黙考、熟考に熟考を重ねた末に大器晩成がなされるかのようですね。
 言い換えれば、ぽっと出の僥倖によって掴んだ成功などは脆く儚い。そしてその栄華は長続きしないということができるでしょう。
 ある意味では「雨降って地固まる」とも考えられるでしょう。いろいろ悪いこともいいことも起こるかもしれませんが、それによって地盤が固められ結果的にはいい状態になることができる。
 そうした出来事全てがしっかりとした地盤を作るために必要なことなんだと。


 ・陳勝と呉広の話などはものすごくこれにピッタリくる気がします。


 秦はその圧倒的な国力によって六国を滅ぼし、中華統一を果たします。これが紀元前221年のことですが、陳勝呉広の乱は209年ですから、つまり統一から大体12年後のことのようです。
 圧倒的な力を持っていた秦ですが、その統治はたった10年足らずしか持たなかったと。法治主義によってのしあがった秦でしたが、その平和は10年しか続かなかった。平時のルールとしては法治主義はベストなものだとはいえなかったのでしょうが、そもそも中華統一がなされた例などなかったことであり、その当時そんな経験を中国自体が持っていなかったということができるでしょう。
 法治というのがまさかここまで平時とは相性の悪いものだとは。


 ・雨が降って定刻までに場所にたどり着けない陳勝呉広一行でしたが、定時に間に合わなければ斬首、逃亡しても斬首と秦の法はすさまじく厳しいものでした。
 じゃあどうせ殺されるなら反乱だ、ということで中国史上初の農民反乱が大々的に巻き起こることになります。あまりにも厳しすぎる秦の統治下で、反感を感じていた者はものすごく多かったのでしょう。
 あっという間に中国全土にこの反乱は広まっていきます。


 ・ところがこの反乱はわずか半年ほどで鎮圧されます。
 確かにものすごく勢いはあった。
 でも所詮は農民の反乱です。
 六国をあっさり滅ぼして治めることができたほど強い秦の精鋭集団を中心に組織された軍隊を前にして、どれほどの力があったかということでもありますし。
 それに将軍は名将である章邯(しょうかん)でした。


 勢いは確かにあったのでしょう。人々の心をがっしりと掴んだのもあるでしょう、でもいくら数十万単位とはいえ、あっさりできたものはあっさりと壊れるということが言えるのではないかと思います。
 他にも反乱集団はいくつか構成されていました。例えば項梁(こうりょう)将軍などの軍などもありましたが、陳勝の軍が項梁の予想もしないほどの速さで瓦解していったと。
 連携する約束をしていたはずが、気づけば軍自体がなくなっているのですから。


 ・同時期に劉邦も山賊となっています。
 陳勝呉広らと同様に、定刻に場所にたどり着けないので脱走して山賊となっていましたが、陳勝呉広らが反乱を起こして機運が高まっていましたのでそれに参加していました。ところが陳勝呉広が急死したというのでこの一同も動揺します。しかし結局は残党をまとめあげ、秦を滅ぼすことに成功します。
 紀元前206年ですから、つまり陳勝呉広の乱から3年後、秦の中華統一からは15年目のことですね。


 ・秦という国の歴史を考えると、15年という短期間で滅んだというのは不思議なことです、
 秦

 570年もの長い歴史を持っています。
 最初は野蛮だと蔑まれており、隣国の魏からも領土を掠め取られるほどの弱さだったようですが、これに危機感を持った孝公の代の時に商鞅を採用したと。
 孝公

 統一から考えれば180年ほど昔ですね。
 つまり400年くらいは弱小国扱いだったようですが、そこからはトントン拍子に強国化に成功したのだと。
 秦がそんなに長いこと弱小国だったということが驚きですが、この改革によって強国となってからは立場が逆転します。韓や魏を脅すし趙も大いに負かす。斉も途中で没落しますし、そうなると秦の独壇場となってくる。
 でも400年も下積みしていたのであれば、一方的にやられる痛みとか野蛮人扱いされることとかに抵抗とかもっていそうなものですが。でもそういう感じではないですよね。
 法治主義という勝つルール、勝てる方程式を作りあげてしまった秦にとっては、憐れみとか情けとかそういうものはもはやどうでもいいものだったかのようです。連帯責任でガチガチに固めて罰と恐怖によって人々を支配する。それが最も効率がいいわけですし、これで十分勝てるというのに他に何か導入するようなものがあっただろうか。


 ・冒頭に戻りますが、
「苦しんだり楽しんだりして刻苦し、その修練が極まった後に福を為す者は、その福を久しく享受することができる。
 疑ったり信じたりして勘案し、それが極まった後に知を為す者の知というのは、初めて真だということができる」
 ということのようです。
 法治主義によって一方的に勝てると確信し、慢心した秦にとってその他のものを導入することなどもはやどうでもいいことだったのでしょう。法治主義は確かに素晴らしいものだったかもしれません、でもそれによってその他のものが導入されなかったということは、それは結果的には秦という国を貧相なものに仕立て上げたのではないかと思います。


 失敗したり負けたりした時は、人は何かを導入しないといけないと危機感を持つわけです。それによって孝公が商鞅を採用したようにです。でも連戦連勝や負けなしの状態では人はそれをしない。敢えてそれをしなくてはならないという必要性に駆られることがないためです。
 人が負けによって豊かさを増し、勝ちによって窮乏するという所以だと言えるでしょう。
 そして連戦連勝の果てに、その栄華は15年で潰えたというのが秦の実情ではないかと思います。驕り高ぶり、法治以外の物を導入する必要性を感じず、その努力を怠り、結果的に何が悪かったのかも分からぬまま滅んだというのが秦ではなかったろうかと。200年続いた順風満帆が、刻苦勉励しなくてはならなかったはずの秦を骨抜きにしていったのではないだろうか。
 そうすると、栄華と見えたものの内に既に滅亡の芽は潜んでいたと言えるのではないか。



 ・最後に余談ですが、せっかく中国語やってますので、陳勝の言葉を2つ紹介して終わりにしようかと思います(笑)


 ①「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」(小鳥に大鳥の気持ちがわかろうか)
 ②「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(誰でも王になれるのだ)
 という言葉ですね。

 ①燕雀安知鴻鵠之志哉
 (Yànquè ān zhī hónghú zhī zhì zāi)
 (イェンチューアンチューホンクーチューチーザイ)

 これ以前にも出しましたね。最後に哉はなかったですけど、今出したらなんかついてましたのでそのまま付けました。
 三国志の映画ではついてなかったですね。だから最後のザイはなくても行けると思います。

 ②王侯将相寧有種也
 (Wánghóu jiàng xiāng níng yǒu zhǒng yě)
 (ワンホウジャンチャンニンヨウチョンイェ)

 って感じのようですね。
 完全に余談でしたがここで終わります。 




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