菜根譚40、気候と性格(田豊、沮授、郭図の考察)






 「天地の気は、暖かいと物を生じさせ冷たいと枯死させる。
 性格の冷たい者は天からの恵みも冷たく薄い。
 和気があり熱意のある者にのみ福は厚く、恩沢も長いのである」


 ・天地の気候と人の温かい冷たいとを一致させてますね。
 でもそんなにうまくいくものなんだろうかなと。人がいい人がむしり取られて損をするとか、冷たいけど計算が得意な人がうまく損を回避しツケを他人に支払わせてうまく世渡りするとか、つまりその逆の例が多々あるということって多いんじゃないかなと思います。そもそもそんなに世の中が単純であるのであれば「正直者がバカを見る」なんて言葉はそもそも存在しないはず。
 まあこれを進めていったら身も蓋もないですが、栄える勢力と衰退する勢力との違いはそこにあるかといえばかなりそうではないと言っていい。
 袁紹なんて個人的にはいい人で涙を流したりと情に厚いだったのでしょうけど、褒美はケチるし猜疑心が強く罰は多いと。
 一方の曹操は冷たい人ですが、能力があれば出自は問わないと。悪いことしてたって能力さえあれば気にしないというのが曹操であり、人材を使いこなした結果勝ったのは兵の少ない曹操の方でした。
 とはいえこれを進めていっても反菜根譚にしかならないので(笑)、ここらへんで止めときますが(笑)


 ・袁紹はその人柄と四代に渡り三公(司馬、司空、司徒)を輩出した家柄とで広く知られていました。情に厚く人々に恩を施すために、民からは慕われていたと。
 こうした事情がありたくさんの人材に恵まれることとなりましたが、しかしなぜ袁紹は負けたのかということについてはそこまで深掘りされていないように思います。


 ・田豊という男がいました。
 田豊

 彼は知略に長けており、曹操からもその当時の人々からも称賛され、「今の世の張良・陳平だ」とも評されていたと。ところがどうも袁紹とは折り合いが悪かったようで、袁紹は田豊の意見のことごとく逆をいくことになります。そして見事に官渡の戦いにも敗れ、このままでは田豊に笑われてしまうと危惧した袁紹によって斬首されます。いくら才能があり、智謀があっても使われなければ何にもならない、それどころか下手に智謀があることが袁紹のプライドを逆なでし、まさかの斬首、つまり身の破滅を招いたと言えるでしょう。
 曹操からはもしも袁紹が田豊の策を使っていたら立場が逆だったろう、と言ったということですが人材コレクターであるはずの曹操がその死を嘆いて、オレのところにいればと言ったという話は聞かないので、そこまで曹操は思っていなかったのではないかなと思います。


 枳棘非鸞鳳所棲(くきょくひらんぽうしょせい)、枳棘は鸞鳳の棲む所に非ず(ききょくはらんぽうのすむところにあらず)と言います。いばらやからたちなどのトゲのある木の中にいい鳥は棲まないものだという意味です。まして鳳凰(ほうおう)などの鳥がそんなところに住むはずがないと。
 郭嘉(かくか)という人は袁紹を見てこれは違うなとあっさり見切って去っていますが、田豊はそうではない。折り合いが悪く、意見はことごとく対立し受け入れられず、それでも袁紹のところにいたわけです。あーこりゃ袁紹ダメだわとか、ちょっと仲悪いし相性が悪いようだから別の人のところに行こうとか。そういう風に思えなかった時点で田豊はちょっと腰が重いなという印象を受けます。まして斬首されるわけですから、そこまで命を張ってまで仕えるような主君なのかともっと内省されてもよかったように思います。そう考えると、田豊という人の印象がちょっと弱いし薄いなと感じられます。
 もうちょっとなんとかなったはずだし、自らの運命を本当に袁紹に託してもいいのかと考えていてもよかったのではないか。


 ・または沮授(そじゅ)という人もいましたが。

 この人も田豊と並んで評価が高く、
 「その智謀はかの張良、陳平に匹敵した」と評されたのだと。
 この人は袁紹グループの中で最も勢力が強かったようですが、郭図(かくと)の讒言によって勢力を結構削がれたと。
 「建安5年(200年)、官渡の戦いが始まる直前に沮授は袁紹の敗北を予想し、弟をはじめ一族に資財を分け与えた」
 いやいやそれならさっさと袁紹のところから去りましょうよと思えます(笑)


 陳平なんか項羽に殺されそうだと思ったらあっさり楚を抜け出して、漢に投降します。海賊に剣とかみぐるみを剥がれても身一つでとにかく脱出する、そうした決断力に富んでいる人だと思えますし、行動力がとにかく凄まじい。腰が軽いですね。
 それに比べたら、負けるとわかっていながらも袁紹陣営にとどまり続け、袁紹のために戦うというのはちょっと話がおかしいように思いますし、本当に陳平に匹敵すると言えるのかどうか。あるいは智謀は非常に素晴らしかったし、先を見事見通していた、袁紹は負けたし滅んだと言えるかもしれませんが、でもそれが滅ぶとわかっていながらそこにいるというのはどうなのか。
 田豊といい沮授といい、評判はともかくどうも智謀の深さと行動の不一致が認められるように思えてなりません。


 ・そして郭図ですね。

 この人は曹操のところに行った郭嘉の従兄弟かなんかです。
 郭嘉もこの人の縁あって袁紹にまみえたという経緯があります。
 この郭図ですが、すこぶる評判が悪い。讒言(ざんげん)が多い。袁紹軍の讒言担当官と言えば郭図という感じで、袁紹陣営を次々に分裂させ弱体化させたという、曹操軍の影の功労者みたいになっています(笑)


 沮授と田豊の意見に反対し、沮授の勢力を削ぎ、その分の兵士をもらう。
 曹操の本陣急襲策を出しますが失敗し、その責任を張郃と高覧になすりつけたので、二人は処刑される前に曹操に投降します。
 そして袁紹の死後は長男袁譚(えんたん)を後押しし、袁尚勢力と戦うことになります。そして袁譚と袁尚が戦って戦力を消耗させた後に、曹操は二つを潰しにかかります。ここは「ほっといたら二勢力が潰し合いますのでそこを叩きましょう」という郭嘉のまさに読み通りの筋書きとなっています。


 ・こうして郭図主導のもと袁紹勢力は分裂に次ぐ分裂を繰り返し、弱体化していき、そして衰退し滅亡していきます。では郭図が全て悪いのか、元凶であり諸悪の根源かといえば私はそうではないと思います。袁紹が家臣団に対し抑えを効かせられなかったこと、それが一番決定的だったと思います。
 それが何をもたらしたかと言えば。田豊や沮授の意見を取り入れることができなかったことに繋がります。これによって得られるはずのプラスを失った。
 そして郭図をのさばらせてしまったこと。それによって家臣団の間に疑心暗鬼や下手なことをしたら殺害されかねない、いつどのような理由で讒言を受けるかわからないという空気感をもたらしたと考えられます。つまりマイナスを大きくした。
 このプラスを失い、マイナスを大きくしたということが袁紹衰退の原因と考えられるのではないかと思います。


 ・とはいっても我々は過去に対して向き合う時にはえらそーになれますし、歴史を見ていると全能感のようなものを手に入れた気になれますが、実際そこを生きる者として考えると非常に難しいと思いますね。
 曹操だって家臣団と向き合うという事情は一緒だし、AとBがありどちらを選ぶかという岐路には散々立たされてきたでしょう。例えば、郭嘉は烏桓(うがん、要するに袁紹と仲のよい異民族)討伐を意見として挙げていますし、曹操はこれを受け入れています。
 これによって白狼山の戦いが起こります。

 これによって曹操は袁紹の残党と烏桓を散々に打ち破りますが、この戦いがどこまで必要だったかはわかりません。正解だったのか失敗だったのかもわかりませんが、ただ献策した郭嘉はこれによって死ぬこととなります。


 ただ、袁紹陣営と曹操陣営との明らかな違いはそこでの曹操の決断が確かに正解っぽく思えることでしょうし、あるいは袁紹の決断が明らかに失敗だったようにも思えることでしょう。それは傍から見ればそう見える、というだけでなくある程度の妥当性があり、より様々なものを視野に入れており、つまりはより多くの意味性を含んでいると言えるのではないかと。そしてそうした卓見と言っていい見識を素直に取り入れることができたか否か。それが明暗を分けているように思います。


 ・結局反菜根譚にしかなりませんでしたが(笑)、袁紹陣営があれだけ栄えており勢力もあり広大で、しかも兵士も多いのにも関わらず曹操に負けたということ。これはもっと深掘りされていいテーマだと思いますので、また別の機会にでもさらに掘り下げていこうと思います。






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