菜根譚37、心と体と頭(三国末期のやる気のない現象、司馬炎について)






 「心体が光明であれば暗室にいても青天があるに等しい。
 心や頭が愚昧であれば、白日の下でも幽鬼が生じる」


 ・いいお話ですね。
 心や体が健康で健やかであれば暗室にいても晴天が広がっているようなものであり。
 心や頭が曇っていると晴天下でも心が塞がったようなものである……


 逆にどんな環境下であっても腐ったり塞ぎ込んだりしていなければ心は健康で健やかだともいえるかもしれませんし、腐って塞ぎ込んだりしていれば心かもしくは頭のどちらがやられている。そういうパロメータとしても考えられるのかもしれません。


 ・直接関係ある話かはわかりませんが、司馬炎(しばえん)という人がいました。
 司馬炎

 司馬懿の孫であり、司馬昭の子です。
 一応司馬懿には司馬師(しばし)という長男がいましたが、この司馬師は男の子がいなかったので跡取りは司馬昭になったと。その子が司馬炎になるわけですね。
 この人は30で皇帝になり、25年ほど皇帝やってましたが中国を統一したらすっかりやる気を失ってしまったようです。それまでは英明だという評判でしたが、そこから先はひたすら子作りに励んでいます。一万の女性を後宮にいれ、庶民の結婚も一時禁止し、とにかく子供を残すのだと。


 ・なぜなのかはわかりませんが、三国時代も後期になるとこういう風潮がやけに目に付くようになるなという印象です。
 孫権も若い頃は非常に優れていたように思いますし、華があるなという印象ですが、晩年は後継者争いで呉を荒らす上に陸遜は憤死します。
 さらには呉の最後の皇帝である孫晧(そんこう)も最初は憐れみ深い王だったはずですが、暴政を敷き呉を荒らすようになります。
 劉禅なども姜維が頑張ってる中、酒宴をしており魏の鄧艾(とうがい)が現れたらさっさと降参してしまうし、一体何なのだろうというくらいみんな急激にやる気がなくなるような気がしますが、この司馬炎もなんか似た感じの印象です。
 呂布が野心を抱いて裏切りを続けて中原をさまよっていたり、趙雲が赤ん坊(劉禅)を抱いて長坂を一騎で駆けたり、曹操が馬超の追撃から逃れるためにひたたれを捨てて逃げるとか夢のようですよね。
 なんか時代が「もうそういうのいいよ。めんどくさいから」と言っているかのような。乱世も続くとみんな飽きるのかも知れません。三国時代の三すくみの緊張感も、続けばだれると言いますかね。


 ・司馬攸(しばゆう)
 と司馬炎との関係に何かがあったのかもしれませんが、まあ詳しいことはわかりません。
 司馬炎は司馬攸のことを別に悪く思っていたようではないし、むしろけっこう好きだったようですが。ただ家臣団の間では、司馬攸に人心が集まると困るという事情があったようです。そんなこんなで若くして司馬攸は死に、その死に司馬炎は大変なショックを受けたようです。それがあったからかなくてもなのか、とりあえず司馬炎はすっかりやる気を失って子作りに日夜励んでいたようです。


 ・かつて、教育をろくに受けてない劉邦でさえ統一後は疑心暗鬼に陥り、誰が次裏切るかわからんと疑心暗鬼に陥り、誅殺に次ぐ誅殺をくりかえしていたものでした。その後は呂氏の専制が続き、家臣たちは皆誅殺されまいと生き残りに必死でした。


 なぜ英明として知られていた司馬炎がすっかりやる気をなくしてしまったのかはわかりませんが、明らかにいろいろおかしい。ただ良かったのは、良くも悪くもやる気がないことであり、要するに「どーでもいい」気風が強くあったらしいということですね。諸葛亮の子孫とか、曹操の子孫とかそういう蜀の遺臣とか魏の遺臣とかをその「どーでもいい」くくりによって採用する。呉の孫晧の後宮の女性5千人を自らの後宮に取り込むとか。異民族がたくさん都に入り込んで現地で問題を起こしているようですよと言われても「どーでもいい」感じで無視し封殺するとか。
 それが西晋の早い滅亡をもたらしたともいえるでしょうが、ある意味では「三国」というくくりや縛り、固定概念に囚われることなく各国の遺風を融和させることに成功した……のかもしれません。


 ・ということで今回は司馬炎を取り上げてみましたが、なぜ三国時代の末期がこうもみんなやる気がないのかはよくわかりません。そもそもやる気が本当に無いのかも疑わしく、わたしの三国志末期に対する印象でしかないのですが。誰かこの変貌と廃れよう(?)を考察してくれんかなと思ってます(笑)



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