「富貴や名誉。
これが道徳よりきている者は山林の中の花のようなものだ。自然と生い繁って繁栄していくだろう。
これが功業よりきている者は盆栽や鉢植えの花のようなものだ。移動し捨てられ滅んだり栄えたりすることもある。
これが権力よりきている者は花瓶の中の花のようなものだ。根が無ければいずれ萎むことは見るまでもない」
・道徳、功業、権力と三つ並んでますが。
権力はわかりやすいですね。
昨日出した陳平の陳一族の栄枯盛衰がまさにそれそのものだと言えると思います。それこそ初代の陳平は頭が切れており睨みを効かせることができたかもしれませんが、子孫もそうだとは限らない。というより明らかにそうでない。それというのは根のない水を花瓶につけておくようなものだと。一時しのぎにはなるかもしれませんが、根のない花ではいずれ萎むのは目に見えているんだと。
陳平が生きている時でさえ、悪評を聞きつけては告げ口する者が多かったわけです。それを本人の冴える頭と機知でなんとかしていたものが、まして陳平死後の陳一族ではその陳平の功績がかなり重くのしかかったことでしょう。
・功業はどうかといえば、家臣というものがそもそもそういう性質なのかもしれませんね。これはいくらでも挙げられると思います。
例えば陸遜(りくそん)ですね。
陸遜
夷陵の戦いでは39~40くらいですが大都督となり、劉備率いる蜀漢を大いに破っています。
この時は孫権も大喜びで、陸遜を高位に就けたり荊州を一任したりとしています。
ところがそれから20年ほどして、呉の孫権のところで後継者問題が沸き起こります。
二宮の変(にきゅうのへん、あるいは二宮事件とも言います)
孫権が後継者を決めかねてあいつにしようかこいつにしようかと10年迷った結果、呉が二つに分かれて混乱を引き起こしたという話ですね。
これによって陸遜にも疑いがかかり、陸遜は怒りのあまり憤死します。
名将の死としてはパッとしない、冴えない最期だなという印象です。
夷陵の戦いではあれだけ功績を上げ、呉の名将として恐れられ、ところが君主に諫言し仲が悪くなるとこんなものです。持ち上げられるときは持ち上げられ、煙たくなると遠ざけられる。
まさに植木鉢に植えられた花のようなものですね。
そして孫権も若い頃は英明として知られていたのですが。
wikipediaの言葉をそのまま引用しますと、
「袁紹・劉表は、それぞれ袁尚・劉琮が聡明であると考え、元々彼らに後を嗣がせようとの意思があった。しかし孫権は、一度は孫和を立てながら、後にまた孫覇を寵愛してみすみす混乱の元を作り、自ら一族に災いをもたらした。前2者と後者は同一ではない。袁・劉の例と比較しても、孫権の愚鈍で道理にもとるところは、より酷いものである」
とまあ散々な評価です。三国時代だけじゃないですけど、中国の世継ぎ問題は深刻で、その問題をどう乗り切るのかが常に問われている感がありますが、とりわけ孫権は悲惨でしたね。まあこれは余談でした。
・では道徳とは何かということですが、これが一番分かりにくい。
そもそもそれが簡単に説明できるなら苦労しないよという話ですね(笑)ただ、漠然とそういうものがあるらしいことは薄々はわかります。
・例えば、秦は法治主義でしたが。
これによって他の六国よりも発展し、富国強兵に成功したわけです。
それは厳しい法律遵守と連帯性によって成り立っていたわけです。それは確かに秦を富ませた。だからこそ他の六国を本気を出せば易々と滅ぼせたわけです。ところがその後はたった15年で秦帝国は瓦解してしまった。法律の厳しさ、人民の怨嗟の声(えんさのこえ)は高まり、数十万の人民が立ち上がり秦を滅ぼそうとしたわけです。
そして張良は人々が法律を極端に嫌っていることを知っていた。
そのため、劉邦に言います。
真の首都である咸陽(かんよう)では法律は三つだけとした方がいいですよと。
これによって人々は喜び、劉邦を慕うようになります。
・その後、張良が進言して法をきつくする場面がありますが、劉邦はそれを怪訝に思います。
かつて咸陽では法律があまりに厳しかったので三つだけとした。なのに今それを敢えてわざわざキツくするのはなぜだと。
その時張良は答えます。
秦の統治下では法律があまりに厳しすぎたので緩める必要があったので三つとしたのだと。
でも今は法律が緩すぎて問題が起こっている、人々が法律の緩さの前に困っている、だから法を厳しくする必要があるのですと。どの場面かは忘れましたが。
・さて、そろそろまとめたいのですが。
思うに秦という国は商鞅が出て改革をしてから150年で一気に栄え、そしてこれは素晴らしい、法律は素晴らしいと法を絶対視した、それによって確かに富国強兵に成功した国でもあると思います。
でもそのあまりの厳しさがあったがゆえに、誰もが耐えきれなくなった節がある。
期日を送れれば死罪、逃亡者が出れば死罪、とにかく人はダメなものだからこうして罰を設けてやらないといけないんだと徹底的にムチで締めあげたのが秦です。秦という国はそれであまりにもうまくいっていたので、もうそれを見直すということができなかったし、それの何が悪いかすらわからなかったと言ってもいいでしょう。何しろ150年もその体制でどっぷりと浸かってきたわけですから。法であまりに成功した秦は、法意外にその理由を探さざるを得なかったと言える。
漢という国の特色はその緩さにあると思います。秦は厳しすぎて苛烈と言ってもいいほどだった。法を三つにして緩めたかと思えば、それでは不具合が出てきたからじゃあ少し法をキツクくするかと。
厳しすぎず、かといって緩すぎない。その適度な具合を模索することができた。融通を効かせることができたと言えるのではないかと思います。まあ、それが緩さから隙となり、腐敗し後漢の頃になれば腐敗の温床となっていたということも否めないでしょう。そういう気質というのは、酔っぱらった劉邦が宮中で刀を抜いては辺りに切りつけたとか、そういう異常なほど型に縛られないこととも一致しているのではないかと思います。気風といいますかね。
それは冒頭で上げた道徳ではないかもしれません。でも法を絶対視しすぎず、いい塩梅で都合がいい時になれば法を使うしいらなくなれば法治をやめていけた、つまりその他のやり方や方法が漢にはあったと言えるのではないかと思います。そういう意味では、漢の法については私は詳しくありませんが、秦の法律や漢の法の変遷などをかじってみるといろいろとおもしろいかもしれません。
この記事へのコメント
たまこ
坊やだったからさ
きんた
> たまこさん
>
> >なぜ秦は滅び漢は栄えたか
>
> 坊やだったからさ