「苦心の中にいつでも心を喜ばせるような趣が生じ。
得意気の中に失意の悲しみが生じる」
・きわめて単純ですが、これを言っているその大本の概念というのは何かと言えば、治の中に乱の芽はあるし、乱の中に治の芽はあるということでしょうし、得意気な顔の中にいつ足元を掬われるかわからんという警戒を持ち、失意のどん底の中でさえもこうでなくてよかった、最悪ああでなかっただけでも儲けもんだと思うような心を持つ……ということに繋がるように思います。
つまり、対極のものの内に既に芽やその兆候は潜んでいるのであり、それを見出すのが極めて大切だというような生き方への姿勢に繋がっているように思います。陽とは陰の内にあるのであり、陰とは陽の内にある……ともいえるでしょうし、また、「死地に生あり」とか「勝って兜の緒を締めよ」なんていうのは、そのうちのある一面が出たものに過ぎないと言えるでしょう。
・「人はその長ずる所に死せざるは寡し(ひとはそのちょうずるところにしせざるはすくなし)」と言いますが、ほぼ例外なく確かに大半の人間というのはその得意な分野で死んでいるということができるでしょう。
わかりやすい例が、武将なんて武芸に長け勇猛であるがために戦場で死んだ者が大半です。そしてその武勇で鳴らした功績が鼻を高くさせ、滅亡に繋がらせている例がいかに多いか。自信があるから一騎打ちなどをして戦場で死んだ者もいれば、関羽や張飛のように孤立したり部下に裏切られたりして死んでいる例もあるわけです。
呂布などもそうだと言えるでしょう。
呂布
三国時代で最も武芸に秀でた武将として有名なのは呂布でしょう。
桃園三兄弟(劉備、関羽、張飛)の三人をまとめて相手にしたとか、弓を射ても百発百中で、遠くに刺した戟(げき、槍みたいなものだと思ってもらえれば)に当てただとかとにかく伝説の多い武将です。
そして裏切りも多い。
丁原(ていげん)に仕えては殺して裏切る。
そして董卓に仕えてまた裏切る。
劉備の徐州を乗っ取ったこともありますが、なぜここまで裏切れるかといえば自分の武力に自信があり、これだけ武芸に秀でたオレをまさか殺そうなどとは誰ももったいなくてできまいという気持ちがあったからではないでしょうか。
最期に曹操に捕まった時にも「オレを使ってみないか」と言い出します。これが非常に効果的だったようで、優れた人材コレクターだった曹操は、確かにこれだけの武将を殺すのは惜しい……と一瞬躊躇します。
そこで劉備が「丁原と董卓のことをお忘れになりませんよう」と釘を刺したところ、呂布は「この大耳野郎(劉備は耳が非常に大きかったとか)」と罵ったのだと。
曹操としては、もちろんその呂布の裏切りやすさもあったでしょうが、何より呂布の手下に張遼(ちょうりょう)という騎馬の扱いに長けた名将がおり、張遼がいればまあ呂布はいいかと思ったという話があります。もし張遼が手下にならなかったら、もしかしたら呂布を味方につけようとした可能性もあるかもしれません。人材コレクターですし、それに当時の曹操はどこへ向いても敵だらけだった。そうなると特に呂布のような名将は喉から手が出るほど欲しかったのではないかと思います。
こうして比較してみると、呂布も関羽も張飛も武芸には秀でていたがために戦場では死ぬことはなかったわけですが、その武芸にまつわること、その先で命を落としている、殺されているという共通点があるというのが興味深いところです。三人を武芸という道での「成功者」と捉えるならば、その成功の先に破滅が待っているわけで。
関羽は高慢になり、張飛は横暴になり、呂布は自信過剰になり滅んでいったのだと。
・では方や知略の方面はどうかと言えば、「策士策に溺れる」とはいいますが、果たしてどうなのか。
司馬懿などはその典型でしょうが、後世から見れば、つまりすべてを明らかにして見てみると非常に印象が悪く、悪い者の代名詞みたいになっている。
その当時としては、将軍としても策士としても政治家としても一流だったかもしれません。
西では諸葛亮と対峙し、北は公孫淵(こうそんえん)を討伐し
しかし自分を抱えてくれた曹一族を皆殺しにしたという印象の悪さがあまりにも強すぎます。まるで寄生虫のように、恩ある主君の一族を皆殺しにしたというのが強烈過ぎる。
でも司馬懿自身は別に「策に溺れた」わけではありません。
それどころか、処世ということでみると恐らく同時代の誰よりも非常にうまく見事に一生を切り盛りしていき、子孫に魏を乗っ取るためのおぜん立てをし、この世を去って行ったと思います。後世に悪名が残ったところでなんのその、もうこの世を去っているわけですから知ったこっちゃないでしょう。
・もう一人見ておきたいのが陳平(ちんぺい)です。
陳平
劉邦の下で謀略担当をしていた人ですね。韓信と同じでもともと楚の項羽の下にいましたが、うだつは上がらないし出世の見込みもないので漢に逃げてきてから重用されました。
wikipediaにここは重要だろうというところがありますのでそのまま引用します。
「劉邦の軍師というと張良をすぐに思い浮かべるが、陳平は張良に比べて謀略に長けていた。そのことから身内にも警戒されることがあり、劉邦は死の直前、「陳平に全てを任せるのは危ない」と述べている。陳平自身も「私は国のために止むを得ない事とはいえ、陰謀が多かった。陰謀は道家の禁じる所であり、死後子孫は絶えるだろうし、爵位を失うことがあれば二度と再興はできないだろう。皆、自分が陰謀を立てた報いである」と予言した。
その予言どおりに陳平の爵位は子の共侯陳買、孫の簡侯陳恢の代は何事もなかったが、曾孫の陳何が姦通の罪を犯したために、陳何は処刑され晒しものとなり、爵位を取り上げられた。陳平の玄孫(げんそん、孫の孫)の陳掌は霍去病の母と密通をし霍去病の義理の父となり、その立場を利用して諸侯としての身分回復を図ったが成功しなかった」
陳平自身謀略で出世し、劉邦も取り立ててくれたりいろいろあったので漢の丞相の地位を務めましたが、でも彼自身は意識していたわけです。
自分は謀略によってのし上がった、つまり「あいつはいつも後ろ暗い計算してるヤツだ、それで出世したヤツだ」というイメージが彼には常に付きまとっていたと。それは彼だけでなく、陳一族に常につきまとっていた。重い罪を犯しても許される場合もあるでしょうが、陳一族の場合はちょっと悪いことがあってもものすごく重く問われることになった。
それは陳平の孫の孫の代になっても付きまとうほど重いものだったわけです。確かに陳平の才能は素晴らしく、頭は良かった。でもそのツケを取らされたのは陳平ではなく、陳平の子孫たちだったわけですね。こうして「成功の中に潜む破滅の予感」は陳一族に常に付きまとい続けたわけです。
・ということで長々といろいろ見てきましたが、成功の中に破滅の芽はあるという話でしたし、逆に破滅の中に希望の芽はあるということも言えるでしょうという話でした(今回それについては言及してませんが(笑))。
なんというか、個人的なイメージですけどこれ、いかにも中国らしい思想なんじゃないかなと思いますね。
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