「心地乾浄(しんちけんじょう、心の中をさっぱりときれいにすること)にして初めて書を読み古の事象を学ぶことができる。そうでないのであれば、一善行を見ては密かに己のものとなし、一善言を聞いてはこれを仮りて自らの短所を覆うようなこととなる。
これこそが外敵に兵を貸して、盗人に食糧などを持たしてやるようなことなのである」
・評判だけなら「天才」は多くいたのですが、それでも実戦に耐えてとうとう後世にまで残ったような天才は決して多くありません。才能はあったけど早逝した前回の郭嘉(かくか)、それから鳳雛(ほうすう)こと龐統(ほうとう)など、不運や不幸もあってとうとう実力を発揮できない、真価を発揮できなかったということもあるわけです。他にも曹操の息子の曹沖(そうちゅう)なども12~13歳くらいで死んでいますが、この人もまさにこれでしょうし、戯志才(ぎしさい)などは曹操がまさにこれからという時に死んだいい例でしょう。
能力があっても時を得なければ真価は発揮されない。
花をつける才能はあっても、実際に花をつけられるかどうかは全くの別物だと言えます。
・かといえば、幸いにもその時は得たけど「あれ?」となるケースも多いですね。
例えば馬謖(ばしょく)などはこちらの典型でしょう。
ことわざに「馬氏の五常(ばしのごじょう)」などと言います。兄弟などが皆そろって優秀という意味ですね。この馬謖の兄弟は皆優秀とされたことに基づいています。
馬氏の五常
その中でも、馬良(ばりょう)は最も優秀ということで広く知られていました。眉毛が白かったので「白眉(はくび)」として知られていますが、今でも「あいつはなんとかの白眉だ」という表現で相手を褒め称える時に使ったりもします。最も優秀とか、才能が秀でているとかそういうことを褒める時に使う表現ですね。
白眉
このふたつを合わせて
「馬氏の五常、白眉最も良し」
などと言ったりもします。
詳しくは馬良の方を見ていただけるとよくわかるかと思います。
この馬良は先を見込まれてはいましたが、夷陵の戦い(いりょうのたたかい)で劉備と共に戦い、呉の陸遜と戦って戦死することになりました。
話を戻しますが、その後も馬謖は蜀に仕え続けて諸葛亮の下で働いています。
そして街亭の戦い(がいていのたたかい)の総司令を任されます。
ところが馬謖は諸葛亮の言いつけに背き、蜀は大敗し、馬謖は斬首されることになります。
これはことわざになりました。
「泣いて馬謖を斬る」ですね。
「どんなに優秀な者であっても、法や規律を曲げて責任を不問にすることがあってはいけない」とありますが、今日でもテレビなどでこの言葉を使ってる時があったりします。
・ところで劉備は馬謖を決して評価していなかったようです。
諸葛亮は目を掛けていましたが、劉備はあいつは大したことない、口だけだと言っていたとか。
これが本当であるのならば、劉備の人物眼が秀でていたことを示すと共に、けっこう諸葛亮の人物眼は曇っていたと言うこともできるのではないかと思います。それでもとにかく用い続け、そして抜擢し失敗し、結果的に斬首することで蜀の貴重な人材を失うことに繋がった。特に街亭の戦いと馬謖を用いるあたりに関しては諸葛亮のアラが数多く見受けられるように思えるのは興味深いところです。
こうして、せっかくうまくいっていた北伐をフイにして蜀は撤退し、それによって敵である魏を大きくのさばらせることとなりました。勝てる場面で勝てない、負けちゃいけない場面で負ける。こうしたことがもたらす意味は決して小さくないということができるでしょう。諸葛亮が馬謖に街亭を任せたということは、結果的には魏の司馬懿に花を持たせてやることにも等しいわけです。
・他にも似たような例はありますが、例えば戦国時代の趙に趙奢(ちょうしゃ)という名将がいました。廉頗、藺相如(れんぱ、りんしょうじょ)と同時期の将軍で、用兵がうまく秦にも負けない戦いをしていました。
この息子が趙括(ちょうかつ)といい、用兵について父親と議論をし、親を負かせることもありました。その様子を見て、誰もがあの名将を言い負かしたのだからこれは大変な天才だと趙括の未来を話し合いました。
しかし父親は違っていたと。
あいつの用兵は口だけで実戦が伴っていない。これではだめだとダメ出ししていましたが、あまりにも評判が先行してしまい、とうとう趙の総大将となり長平の戦いをいきなり率いることとなります。
長平の戦い
これによって趙は大敗し、50万とも言われる趙兵が死亡しました。
これをきっかけとして趙は衰退を続け、滅亡することとなります。
・では趙括に全く才能がなかったかと言われればそんなことはないと思います。名将である親もいましたし、才能はなくてもイヤでも伸びるような環境は少なくともあったと言えるでしょう。
問題は親を負かすことができるだけの口が立つこと、そして親を負かしたことではなかったかと。そして負かした後に親がいくらでも釘を刺せただろうモノを放置したことが、趙括を悪い方に伸ばしてしまったのではないかと。親を負かしたこと、それで得意げになったこと、周囲が持ち上げたこと、そうして鼻高々となった挙句に長平の戦いを迎えてしまったのではないかと思います。
それが素晴らしいものだったかはわかりませんが、才能や素質はあった。
だとしてもそれだけなら「素晴らしい剣になれる可能性……を持った石コロ」であるとか、「素晴らしい器になれる可能性を秘めた……粘土」
とかに過ぎません。それに手を加え、加工し、初めて剣や器が作られる、それを思えば素晴らしい石コロなんて、いくら素晴らしくても石コロでしかありません。凡百の剣にでもできるような切るという行為ですらも石ころにはできない。つまり、そこに陶冶(とうや)があって初めて素晴らしい可能性も開花できると言える。
・本文では食料や兵士を送ったりして「敵を利する」ようなことが言われていますが、でもこの文の本質は人格の陶冶、これがいかに難しいかということではないかと思います。
加工も過ぎれば石ころが粉末しか残らない結果となりますし、かといって手を加えないではまさに趙括を生み出す結果となりかねない。そうした具体的なものを考えたとして、それを土台としたとしても、人格などというこの抽象的で曖昧なものというのは考えることがいかに難しいか。
恐らく、ここではその難しさを考えてみるということが大切なのかなと思います。
この記事へのコメント