「彼が富なら私は仁、彼が爵位ならば私は義。
かくして君子は君主や宰相の篭絡するところとならない。
人定まれば天にも勝ち、志が一つとなれば気を動かす。
君子とは同じ陶器が作られるように手軽にはできないものだ」
・これだけ読むといかにも反骨精神旺盛というか、聞かんヤツというかひねくれてるような印象を受けますが、恐らくひねくれているというよりかは出す手札の多さの方を物語っている、と言いたいのではないかなと。いかに手札が多く、多彩な方向性で物事を考えていくことができるのか。物事に処するのに押すか引くかではない要素というのをいかに持てるのか。丸め込むのにいかに一筋縄ではいかないのか。
火というものがありますが、使い方によっては水を沸かせることもできれば火攻めに用いることもできる。松明にして闇を照らすこともできれば爆薬と合わせて用いることもできるなど使い道は多彩です。人の能力というものも似たようなところがあり、一つ秀でた才能を持つということが多彩な結果をもたらすということもあるように思います。それは例えばコーエーの三国志なんかでは統率力はいくらで武力いくらいくら、知力はいくらで政治力はいくら、魅力はいくらと出てきています。それは一見すると確かにわかりやすいですが、実際のところは知力の良さが誰かの役に立って魅力が上がるとか、武力の強さが乱暴者に見えて魅力が下がるとか、そうした関連というものはあると思いますし、そう単純には割り切れないところも多々あるのかなと思います。考え方としては、大変にわかりやすいんですけどもね。
・関羽と張飛という武将がいました。
劉備と桃園の誓いをしたことで有名ですね。若いころから劉備に従って各地を転戦し、関羽などは「関帝」として今でも民間で称えられています。三国志を見ているといかにも英雄にも見える二人ですが、そう英雄だと見えない面も多々あります。関羽は同僚と上役に対しては傲慢であり、部下に対しては優しかったといわれていますし、その逆で張飛は上役にはペコペコするけど部下にはあたりがキツイと言われています。
関羽は荊州の守りを劉備から任されます。そして魏と戦っている最中に呉からも攻められ、孤立化しかけます。
ここで同僚らに援軍を要請するのですが、
「あいつはプライド高いからなあ……」
「送ったところで遅い! と逆に怒られかねないし……」
ということで誰からも援軍を送ってもらえませんでした。そうして関羽のためなら命を捧げる優秀な部下たちと共に逃げ回り、孤軍奮闘し、呉に捕まって処刑されてしまうこととなります。
これを聞いて蜀には激震が走り、特に劉備と張飛は義兄弟の死に復讐の念を燃やすこととなります。
そして張りきった張飛は部下に無理難題を押し付け、恨まれた部下によって寝首をかかえてしまうわけです。
いかにも三国志の英雄二人、という感じですが、最期は意外とあっさりしたものです。
三国志の著者である陳寿(ちんじゅ)だったかは忘れましたが、この二人を取り上げて
「二人の死は至極当然」であると酷評しています。
二人は武勇に秀でていました。
各地で戦果を挙げ、英雄視もされる。
この二人がいれば大丈夫だと味方からは頼りにされ、敵からは恐れられる。
劉備からの信頼の厚さもありますが、蜀の中でも実質的に中核だったのは間違いないことでしょう。
・ところが関羽は次第に横柄さが目立つようになりますし、張飛は傲慢さが目立つようになってくるわけです。
武勇に秀でていたとしても味方から援軍も兵糧もこないのでは、ただ孤立するほかありません。
敵を倒そう、敵を滅ぼそうったっていきなり味方に首を切られてコケるような話にもなります。
二人は武勇は秀でていたかもしれませんが、その他はどうなのかということです。
つまり武勇だけだったといえるかもしれませんし、ヘタに武勇があまりにも秀で過ぎていた、「オレには武勇があるから大丈夫」とたかをくくっていた、それが己の精神修養とか、ダメなところを見つけては磨こうとする方向性にならなかった。ある意味では武勇に始まり武勇に終わったともいえるでしょう。少なくとも若いころはそれでよかった。でも成功に次ぐ成功をしていった先で、重役にも就いたとして、じゃあそれでよかったのかといえばそれでは不十分だったといえるでしょう。
ある意味ではその人の最も秀でた武器が、最も足を引っ張った、ともいえるのではないかと思います。一時代を作った英雄二人をしてこうなのだから、まして普通の一般人でしかない我々はどうなのかということは重要でしょう。
松下幸之助は「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」と言っていますが。
これはまさに関羽と張飛、二人について言えることだと思います。
成功すればするほどオレはこれでいいんだ、オレは間違っていないんだと思うようになります。その他の努力など必要ないと。でも本当にそうなのか。二人の破滅は、単に最期だけを切り取って考察すれば終わりなのだろうかと。
日々学び続けることがなかった二人の死というのは、いきなり最期に登場してくるようなものではないと思います。謙虚さを持ち、サブの武器となる強みをどうにかして持てないかと考える。それこそ若輩者の諸葛亮に頭を下げていろいろ聞くとか、いろいろ方法はあったはずです。でもそれをしてこなかった。それをするには二人のプライドが許さなかったといえるでしょう。謙虚さと日々の研鑽の欠如が二人の最期を招いた、だとすれば二人の破滅の芽というのは、恐らくは10代20代の頃からあったのではないかと思います。
「どこで間違ったろう」
「せめてここでこうしていれば違ったのではないか」
そういう視点を交えながら三国志を改めてみてみるとおもしろいかもしれません。
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