「魔を降す者は先ず自分の心を降す。
心が従ってさえいれば様々な魔は退くのである。
よこしまな心を御している者というのは、まずこの気を御しているのである。
気が平静であれば、よこしまな心はこれを侵すことがない」
・修行僧みたいな話になりつつあるなという印象ですが(笑)
ただ、そうした心のありようの大切さであり、そうしたことが世の中にどのようにかかわっていくかというのは今も昔もそこまで違ってはいないのでしょう。
劉備が中央から来た役人の督郵(とくゆう)を鞭打つ話があります(確か三国志演技の話)。
黄巾の乱で功績を挙げた劉備でしたが、その功績あって土地を収めるようにと命令が下されます。
そしてその土地をそこまで重税も課すことなく治めていたのですが、そこへやってきた督郵は劉備に言います。
中央から来た者には普通金をよこすものだと。
それができないというのであれば、民からもっと搾り取ればいいだろうと。
そういう配慮もできないくせに土地を治めているんじゃないぞと。
こうしたことに腹を立てた張飛が督郵を殴り倒して劉備一行は姿をくらますという話ですが。
道徳教育というのは
「こんなんじゃダメだ!」という道を示すものだと言えると思いますが、ある意味ではそれを言わなくてはならないほどに人道や道徳が乱れ切っている証拠だともいえるでしょう。乱れ切っているからこそ言わなくてはならなくなった。つまりけっこうそうなっている時点で手遅れなんだと思います。
今の時代も道徳や人の道ということが盛んに言われていますが、結構危機的だというのは思いますね。
これ給食の情報です。
まあ色々調べてはみましたが、普通にやってるところは普通にやっているようです。各地の給食センターが献立表をpdfにして誰でも見れるようにしているので確認してみてはいかがでしょう。
それにしてもこの給食はキツイなと。
わたしが学生だった20年前とかを基準に考えれば明らかに何かがおかしい。
これに対して取れる態度はいろいろあると思うんですよ。
・この20年とは一体なんであり、なぜこのようなことになっているのかとか。
・オレは卒業したし一切関係ない。不幸にもそういう時代に生まれてしまったことが不幸だし、その時代を生きることは自己責任だとか。
・オレたちがじゃあ何かできることはないのかとか。
・コロナだからまあ仕方ないとか。
まあいくらでも考えつくし、千差万別だし正解はないと言っていい。
でもその中には不幸自慢じゃないけど、対象が貶められれば貶められるほど自分が相対的に幸せになったような心地になるようなケースがある。
他にもこういうので耐えることで心が鍛えられるとか(自分は味わったことはないくせに)。
食えるだけありがたく思えとか。
いくらでもあるんですよね。思うだけならば。
私の大体10上の世代が氷河期世代でしたけど、彼らだって
「いや本当に実力のあるやつは氷河期でも仕事就いてるし」
とか言われてたりしました。
そういう流れというのは確かに日本の中にあるわけですけど、まるで互いが互いをムチで殴り合うなんとかというゲームのように殴り合わされて不幸自慢をしているうちにここまで没落してしまったんだなという感じがあります。
そこでは我慢と忍耐によって「対処」されてきたわけです。なんとか誤魔化すことはできていたわけですけど、でもそれは決して「解決」ではなかった。そうして対処対処でなんとかなり、解決の方向や道筋が考え出されてこなかったことがここまで問題を大きくした。そして解決の道筋が示されないまま、そのツケは後払いでやっているうちにとうとうここまで来たかという感じですね。
誰もがそうして不幸な中をもがいていると、ちょっとした成功も成功に映る。でもそれもやはり矮小化された成功でしかない。そもそも抜本的に事態を解決し、打破するようなものではなかったわけです。そしてそうした抜本的な方向性を誰も示せない、示すだけの力がそもそもないというのは誰も同じです。だからこそ我々は解決の方向性と道筋とをしっかり考えないといけないのではないか、そういう時期に来ているのではないかと思います。
まあちょうどいいんじゃないかなと。
徳川家康は「人は城 人は石垣 人は堀」と詠んでいますが。
我々は競争社会にいて、人を蹴落とすことが順位を上げることだと漠然とうまみを知っているきらいがある。
そして他者を蹴落とした結果が、社会を共に支えるべき仲間の不在だと。だから競争社会とこの社会とがうまく連結しているとは言い難いところもあります。人が減れば減るほど順位は上がり幸せになれますが、でも同時に自らの首を絞めている。本当はもう少しなんとかなると思いますけどね。
・なんかあまりいいネタが浮かなばいなあと思っていたら、近頃の世の中を見てのボヤキみたいな話で終わりましたが(笑)
まあたまにはこういうのもいいか(笑)
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