菜根譚20、功名富貴と道徳仁義(武霊王と孟嘗君の話)






 「功名富貴の心を解き放つことができれば、凡から脱することができると言える。
 道徳仁義の心を解き放つことができるならば、微かに聖になることができると言える」


 ・功名と富貴から解脱できれば凡人ではなくなる、というのはわかりやすいですが道徳と仁義の心から解脱すれば微かに聖人になることができるというのはちょっと奇妙な物言いです。これは解説によれば、「世俗の価値観に縛られること」を意味しているのだと。これがいい、あれは悪いという世間的な常識的な価値観があるわけですが、それを何より尊び遵守していこうとすることがもたらすことが人を高みに上らせるのではないのだと。そうしたことに頓着しないことが人を聖人にするのだとここでは言われているのだということのようです。
 難しいところですけど、仁とか義とかの価値観を取り入れてそれを深めていくことはその価値観に強く囚われるということでもあるんだということですね。つまり例えば常識を挙げるとすれば、それは常識があって普通なんだということと同時に常識や正解に囚われてそこから外れた離れた思考ができないというということをも表すのだと。今どういうやり方がベストかというのではなく、既にあるできあいのものをもってきては正解か間違いかをいちいち判断することになるので、これでは応用が効かないといえる。
 じゃあもしもそもそもそれがないとすれば、それは常識的ではないといえるでしょうが、同時に常識に囚われることなく柔軟な思考ができることをも表すことができると言えそうです。この本文ではあくまでその世俗的な価値観がまずあり、それはあるんだけどもそれには囚われないということを意味しているようですから、そうした世俗の価値観自体の否定を意味するものではなさそうです。
 あるけども、でもそれに囚われすぎないことが大切なんだと。


 ・趙の武霊王の話は戦国策ではよく取り上げられていたなあと思いだしますね。
 武霊王

 戦国策99は武霊王が趙の臣下たちを説得する話になっています。


 彼は趙という国を異民族をマネることで強国にすることに成功した人です。つまりそれまでは馬といえば馬車であり、戦車にすることが重要だったわけですが、一人一人の武将や兵士が馬にまたがるというスタイルを一早く取り入れた人なわけです。三国志とかでは武将が馬に乗って一騎打ちとかしてますが、それの原型というわけですね。これによっていきなり強国となりましたが、その後趙では内紛が起きてしまい、グダグダやってるうちに他の国もそのやり方をパクったので、趙の軍事的な優越はすぐに薄れることになってしまったというもったいない話もあるのですが。

 ・彼はじゃあそういうことをしようと思うだけ奇抜であり、思考もけっこう変わった人だったろうかといえば、戦国策から見る限りは極めてまっとうだったと言えます。合理的なものの見方をしており、極めて冷静な視点から物事を見ている。そして異民族のやり方をまねるのが合理的だと判断したので趙で取り入れることにしたわけですが、ものすごい反発があったわけです。
 趙は強国となり、そのやり方を他国もまねていった。つまりその後の戦争のやり方であり当時の中国の常識そのものを変えていったといえるのですが、でも「あいつはちょっとおかしい」とか「変わっている」という印象が残っているのはこの武霊王だけです。中華思想というものがあり、趙という国がまたオレは中華だというプライドがものすごいあるわけですけど、そのプライドの高い国に野蛮な異民族のやり方を取り入れていったのですから、反発の凄まじさはものすごいものがあったと言えます。身内にも書簡を送ったり、わざわざじきじきに説得に行ったりしている点からもそれはうかがえます。強権的な立場である王がわざわざ説得して回っている時点でいろいろおかしいのですけど、それをしなくてはならないほどに根強い反発があったとみるべきでしょう。


 一応は武霊王は王なんですけど、この説得というのも非常に理に適っており、強権的に「あれしろこれしろ」とやればいいはずのところをやらないところが非常に丁寧でもあり、また考えを言葉にする能力も非常に秀でたところがあると思いますので、印象が「ちょっとおかしい人」だというのは残念な点だと思います。まあ英雄というのはこういうものかもしれません。


 ・孟嘗君はニワトリの鳴き声がうまい人とか盗みのうまい人でも採用して食客として取り入れていますが、ここというのは後世に孟嘗君が最も批判を受ける点だといえるでしょう。
 司馬遼太郎は孟嘗君を「非常につまらない人物」だと言っています。
 主君のためなら命を張るほどの義侠心があるとか。主君のためを思えば先々のことまで考えた手を打ち、その手に絶対の信頼を置く、などということは孟嘗君はけっこうないわけです。

 戦国策29では馮諼(ふうけん)が孟嘗君のために手を打っている様子が見て取ることができます。

 この馮諼というのは物事を見抜く目や手の的確さなどが非常に優れていると思うのですが、孟嘗君はその馮諼という人についても、馮諼の考えていることについてもよくわかっているわけではありません。よくわかってはいないのですけど、とりあえず採用している。そしてその手の凄みがわからないので感情に溜めておくのですが、後々その意味が分かった時には謝罪をすると。
 その人がどういう人かとかそこまでわかってはいないけど、アイテム収集でもするかのようにとりあえず採用しておく。これによって孟嘗君は食客を3000人集めるわけです。それは常識的であるかないか、非凡であるかないかということとは全然関係がないわけです。特に深い考えもないどころか、浅い考えもない。でもその人の量の多さによってたまには窮地を脱することもあったんだと。


 ・武霊王も孟嘗君も非凡な人だったと思うのですが、武霊王は基本的に従来の考え方というものを尊んでいった末にその従来の常識以上に素晴らしく合理的だなと思えるものがあればそれに移っていくことができた人だと言えます。尊びはするのですが、拘泥はしない。大切であるし、合理的だと思えるのであれば用いるが、かといってそれ以上のものやその範囲にないものを無暗に否定はしない。合理的だと思えるならば、気鋭の精神によってそれを取り込む方向性を忘れない。
 自らの物差しがあり、それで延長していた末にあるのはこれだと思えれば、それを信じることができるわけです。
 孟嘗君はそういう精神で言えば、少し弱い。自らの物差しで測りはするんですが、でもそれで測りきれないものに会った時に、迷ったり疑ったりするわけです。その枠を超えることがなかなかできない。そしてそうだったのかとわかれば信頼をする。そういう方向性があり、開けている、閉ざされていないだけ非凡だとは言えるでしょう。


 ・人は誰もある程度自分の物差しを持っており、そして枠内枠外というくくりを持っていると言えます。
 物差しによってその枠を突破するような事態に陥った際に、物差しに従うという合理はあるかもしれない、でもためらう場合がある。物差しを信用しきれないんですね。武霊王はその判断と信頼に自信があるのを感じ取れますが、でも趙の普通の人たちはそうはいかない。信頼できないし、突破して凄さと合理性がわかったところで武霊王に対する「変人」のような見方をとうとう捨てきることはできませんでした。
 一方孟嘗君はその枠外をなかなか信頼できない。馮諼という人を信頼するまで時間がかかっている。でも最終的には理解をし、認識し思いを改めることができている。
 こうしたことがまとめられるのではないかと思います。



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