菜根譚10、謙譲や遠慮その2






 「この世にいて、他人に一歩を譲るというのは気高い行いだと言える。
 退くということは、歩みを進めるためにこそ必要である。
 他人を待つにあたっても、心を少しだけ寛大にするというのが幸福の始まりだと言える。
 他人に利益があるようにするというのは、己を利するための第一歩なのである」


 ・ということで前回はまた管鮑の交わりと刎頸の交わりとを引き合いに出しましたが。
 つまり、管仲と鮑叔の二人がおり、鮑叔は管仲の行いを好意的にとらえていたのだと。本当は疑える余地があるということは好意的に捉えることも本来はできるはずなんだけど、我々はそこを好意的に捉えることができず、疑っているのではないかという話でした。
 

 ・ということで前回多くいただいたのが、わたしつい疑っちゃうんですよねという声でした。
 本当は信じるとか好意的に捉えるのがいい、それはわかっているがどうしても疑ってしまう。他人を信用できない。そういう声でした。


 これよくわかるなと思うわけです。というのは、例えばしなくてはならない仕事があるとしてそれを誰かに任せたとします。
 で、終わりましたというから確認してみたらこんなはずじゃなかったとか。あるいはそもそも仕事やってないとか。あるいはそもそもやってないのにやりましたというとか。そういうことは多々あると思います。
 そうなると次からきっちりしめないといけないわけです。つまりそれだけの信用がない、自分はそこまで相手を信じていないがために、確認せざるを得なくなると。これは決して悪いものではないと思います。優秀とか、きっちりしているというのはこういうことの積み重ねだし、こういう目線の多さだと言えると思います。そしてそれをきちんとクリアしてるなと思えばそもそもチェックもしないでしょう。こういう目線があるということは優秀さや社会での経験の豊富なことを物語るものであり、人を信じられないというのとはちょっと違うのかなと思います。


 ・でもそこで注意が必要だと思うのは、それによってできてないなと確認する目線があるということと、できてないヤツを社会が必要とする事情とは全く異なるものだということでしょう。この社会はキャラとかイメージでかなりの部分ができあがっていると言える、そしてその意味で自分が浮き上がるためには生贄を必要としているといえる。できているヤツが回しているということ以上に、できていないヤツがいるということがこの世界を成立させている事情は大きく、根は深いと言える。生贄を欲しているのは古代の神話の時代の話ではないわけです。我々自身が、この社会そのものが生贄を欲しているし、そういう形でこの社会はいびつに発展してきてしまっている。まずはこの背景を踏まえなくてはなはならないでしょう。
 我々はそうした場合にどうしてきたかといえば、その生贄に対し優しさを持つことも当然できたわけです。
 でもそれを選んでこなかった。我々は残酷さを育てる道を選んだ。自らの優越感を満たすためだけにたくさんの生贄を背景としてそれをまるでゴミ箱にでも放るかのようにして生きてきてしまったし、それが普通だと思いすぎている節がある。このことはどうしても念頭に置かれなくてはならないといえるでしょう。そしてそのツケを、その連鎖を子孫代々まで背負わせようとしているわけです。子孫がその連鎖の方に巻きこまれるとは思いもよらない。
 このことは人を信じないということとは少し違うんですけど、我々のこの社会が備えている本質的なおぞましさだと言えるでしょう。いつかはその深い業を拭い去ることが必要なんです。それは今なのかもしれない、報いはあるのかもしれない……と個人的には思っていますけどね。まあ簡単に言えば、人は全く救われるようにはできていないということですね。
 張耳と陳余が憎みあって殺しあっている、なんてのはこの話に比べればまだ全然軽い話だと思います。



 ・話が逸れましたけど。
 人を疑うことはこの社会をきっちり生きる上では必要なことです。
 でも同時にそこに優しさを入れられる余地があるんだよなあ、と思うことも精神衛生上は必要だし、その習慣は後々必ず生きてくると思います。



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