菜根譚10、謙譲や遠慮(再度管鮑の交わりの話)






 「この世にいて、他人に一歩を譲るというのは気高い行いだと言える。
 退くということは、歩みを進めるためにこそ必要である。
 他人を待つにあたっても、心を少しだけ寛大にするというのが幸福の始まりだと言える。
 他人に利益があるようにするというのは、己を利するための第一歩なのである」


 ・これ、私非常によくわかるなと思うんですよね。
 私はブログサークルってとこに入ってますが、入った当初、だから去年の9月の印象がまさにこれの真反対でしたね。
 ブログやってるってことはすなわち読んでもらってナンボなんですけど、「読んで読んで!」だとあんまり読まれない。それでも読まれるってのはよほどの能力あるいはラッキーがあるといえるでしょうが、でもその場合けっこう単発で終わったりもして案外続かなかったりもしますね。
 となると、誰かに読んでもらいたければ先に相手のを読むという気持ちが非常に大切になってくると思うんですけど、当時はそういう雰囲気がなく、なんというか循環が非常に悪かったですね。
 じゃあこれ循環を良くしていけばいいじゃんと思いましたね。
 こっちが見て、相手も読み返してくれる。その繰り返し、その輪を広げていけば全然違ってくるんじゃないかなと。
 「持ちつ持たれつ」っていいますかね(笑)


 それにブログって、やっぱ発信するだけの知識、その深さとかかなり問われるんですよね。それそのものがいかにいいか、あるいは比較してみた時にどうなのか。他の人と比べてどうなのか。じゃあそういうことをきちんと言葉にして説明ができるのか。しかもそれの毎日の継続ですよ。けっこう様々な能力を要求されます。
 そうしたことを取り入れていくってのはけっこう読む側としても本来はかなり有意義なはずなんです。だから始めてみるとけっこうおもしろかったりもしますし。


 ・しかしこの世を生きていくうえで謙遜することや遠慮することって、あまりプラスに生きたことがないなと思います。
 手柄や功績を他人に譲るとか。

 「これしてみないかい?」とか言われて
 「いやーいいですいいです」
 と遠慮していたらチャンスを逃すとか。

 「おおーよくやってくれたねえ。
 これだれがやったの?」となって
 「(本当は自分だけど手伝ってくれた人を挙げて)なんとかさんです」
 とやれば褒められるのは他人だけとか。
 美徳だってのはわかりますが、個人的にはあまり生きたなという経験がない。


 ・「出る杭は打たれる」とか言いますが、打たれるくらいに積極的に前に出ていった経験は必ず生きるなと思います。
 例えば、講演会とか行ったら私は絶対に一つは質問しようと決めてます。
 絶対に恥かいてやると思ってますが、でもそうなると恥かかないようにまともな質問しなくてはならないので(笑)、聞きながら一生懸命考えるわけです。
 この講師が突つかれたくない(あるいは突つかれたい)ような急所は、一体どこだろうかと頭をひねりまくりますね。
 そうなると質問する力も磨かれるし、聞くほうも一生懸命聞かなくてはならない。
 質問していい質問だったと思えたら自分もうれしいし、失敗したら失敗したでもうちょっといい質問すればよかった、次はもっといい質問しようと思ったりします。恥ずかしいと思ったら脳みそに強力に記憶されますし、その場をよりうまく活用することもできると。
 謙遜とかの心一切ないですけどね(笑)



 ・再度昨日の話ですが、管鮑の交わり(かんぽうのまじわり)の話を引き合いに出したいなと思います。
 https://manapedia.jp/text/1968

 https://kotobank.jp/word/%E7%AE%A1%E9%AE%91%E3%81%AE%E4%BA%A4%E3%82%8F%E3%82%8A-471462

 「若いとき共同出資で商売をし、利益を管仲が余分にとったが、鮑叔は「あれは家が貧しいから」といって非難しなかった」
 「ともに戦いに赴き、管仲は三度まで逃げ帰ったが、鮑叔は管仲を卑怯(ひきょう)者とみなさず、「彼には老母があるからだ」といった」


 多分人と人との関係って、いくらでも疑いをはさむ余地があると思うんですよね。
 いくらでも疑おうと思えば疑える。
 猜疑心は高まる一方だし、そうなると全てを否定したくなる。
 あれが悪いこれが悪いと言い立てたくもなる……それが人と人との関係だと思うんです。
 猜疑心というのもけっして単なる当てずっぽうではなく、それなりの根拠に立っており、だからこそタチが悪いといいますか。
 

 でもそこっていうのは同時にいくらでも好意的に判断できるところでもあると言えると思うんです。
 本当はそこに好意的に解釈できる余地があるのに、解釈をはさむ余地があるはずなのに、敢えてそこに悪意をはさむわけです。悪意的な判断をすると。
 人の感情を入れて判断できるところに、なぜか人は悪意的な判断を入れる……それというのは人そのものなんじゃないかなと言えると思うわけです。
 つまりそこにあるのは対象ではない。
 そう見えている自分の心そのものが明らかにされていると言っていい。
 好意的に解釈して、事態を建設的に考えていこうとする姿勢ではなく、相手を疑って悪いほうに考えそもそも建設的な働きかけなどしない……それが人だと言えるのではないかなと思います。本当に客観的な判断ができるのであれば、せめて5:5だろうと思われるものが判断の上では10:0となるわけです。これは主観的判断といえるものではなく、悪意的判断だといえる。そちらに偏っているわけです。
 だとすれば同じだけの力を使って好意的な判断というのも本来はできるはずだと思うんですよね。客観的判断という名目で悪意的判断を行い、そして建設的な方向性、その芽を摘む方向性に動くのが人だと言える。


 ・ということで再度刎頚の友を出しますが。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%8E%E9%A0%B8%E3%81%AE%E4%BA%A4%E3%82%8F%E3%82%8A

 「互いのためならば、首を刎ねられても惜しくない」という刎頸の交わりですが。
 これってある意味そこまで難しくはないわけです。
 首を刎ねられるか否かだけがそこで問われているだけだから。
 でも、人にとって本当に凄まじく難しいのは相手を好意的に考え、建設的に考えることなんじゃないかなと思うわけです。


 いくらでも疑う余地がありながら、それができた鮑叔という人の凄さ、それが明らかにされるのがこの二つの話を比較して出てきた凄さなんじゃないでしょうか。


 ・なんか遠慮とか謙譲と関係があるようなないような話でしたが(笑)、まあいいや。
 ここで終わります(笑)









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