菜根譚6、喜びの心(重耳の考察)
「疾風怒濤、暴風雨の日には、鳥や獣も大人しくしており、悲しげである。
風穏やかで月が綺麗な日には、草木ですらも喜んでいる。
見るがいい。
天地ですら一日でも多くの和気を必要としており、人の心は一日でも多くの喜びを必要としているのだ」
・すごい詩的な文章ですが、それ以上によく自然のことを見ているなと。
和気はつまりのどかさや穏やかさ、和やかさのことです。
動物や草木でさえもそうしたものを欲しているのだと述べられています。
・雨や風の日というのが晴れた日に対する切望に繋がるわけです。
つまり、マイナスな日、マイナスな感情が普通というものを規定しているというのが見て取れます。
超快晴で、うっきうきになった日が普通の日を規定しているのではないのだと。よっしゃ、超晴れたから山にでもいくかあるいは海にでも行くか!
というようなものが普通の日を規定しているわけではないのだと。すごいプラスが普通のプラスをあー退屈だなとか。もっとおもしろいことはねえかなーというように規定しているとはここでは言ってない。
マイナスなものがある、それに比べたらなんと普通ということは穏やかで、のどかな気持ちにしてくれるのだろうかと。そういう形の規定の話をここではしていると言えます。
・じゃあ人の心とは、といえばやはりここでは同じように考えられていくべきでしょう。
マイナスなことがある。
それによってイヤだな、早く過ぎさらねえかなと思うわけです。
そしてそれを抜けた先にある普通の日、あるいは普通ということそのものがもはや普通ではない。
なんて嬉しいんだろう。
なんて普通ということは素晴らしいんだろうと。
その先でさらに雨上がりのさっぱりとした空気感と、美しい月が浮かんでいる。ここでさらにその風の心地よさと月明かりの美しさが引き立つわけです。
普通の時であれば、恐らく何一つ感じなかっただろう普通の空気、普通の月が今やこれだけ際立っているということに幸福感を感じずにはいられないのだと。
・この話で思うのは重耳(ちょうじ)の話ですね。
重耳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%85%AC_(%E6%99%8B)
(楚漢の攻防戦の時に劉邦の配下に張耳(ちょうじ)という人がいるんですが、別人です。まあ時代も漢字も全然違うし間違えないか(笑))
この人は祖国である晋の内紛に巻き込まれますが脱出し、そこから19年間放浪生活をし、とうとう覇者として立つことになります。
だから40代から放浪を続けて、60で即位し、68くらいで死んでいることになりますね。
この人は各国を渡り歩きますが、そこで受けた恩は絶対に忘れず、そこで受けた冷遇は必ず後に報いたという人ですね。
晋の公子とはいえ、特に地位もなく後ろ盾もない。当然晋に戻って覇者になるなどという確定された未来もないわけです。
そんな人があてもなく家臣と各国を渡り歩いて、食べ物がなければ農民にすら物乞いをして、屈辱に耐えつつ生きていくと。
考えてみればけっこう壮絶ですよね(笑)
まああてといえば、生きていればきっと返り咲く日もあるという希望でしょうかね。
こうして20年間恥と屈辱とにまみれ生きるための食べ物にも事欠くような有様でしたが、でもこれが治世の10年間を支えていると言える。
失意と絶望の中で受けた喜びや恵みというのがいかにありがたいものだったか、その喜びを知る男なわけです。
その恩義を感じ、約束にはきちんと報いる。
楚に行った時には大変に厚遇されましたが、「ところでいつか晋で即位などされましたら、わたしに何をお返ししてくださいますかな」と言われれば「戦争になったら三舎退きましょう(舎とは兵の行動一日分を指す)」と約束をしています。なんと無礼で生意気なヤツ(単なる公子でしかも即位するあてもないくせに大言壮語を吐きやがる)だと家臣は皆怒りますが、楚王は笑って許しています。
そして後年、城濮の戦い(じょうぼくのたたかい)が起こるわけです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E6%BF%AE%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
元々は宋と楚とが戦っていたのですが、その流れで晋と楚とが戦うことになるわけです。
ここで圧倒的に優勢なはずの晋はなんと本当に三舎退くという行動を見せます。
特に何かに書かれているわけではないですが、ほんの口約束程度で交わしたはずの約束を守って本当に退こうとはという驚きがあったのは間違いないでしょう。多分約束から五年くらいは経っていると思いますが。
これというのは、単純に晋が強かったという以上のインパクトを持っているといえるでしょう。戦争の最中でさえも放浪時代の恩義と約束を忘れない。きちんと約束を守ったということが、なんと情に厚い男だろうかという印象と感動を各国に伝えたのは間違いないといえるでしょう。
・この戦いの少し前に泓水の戦い(おうすいのたたかい)というのがあるわけです。
この戦いは、後に「宋襄の仁」で有名になる戦いですが。
宋襄の仁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%93%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
身の程知らずの余計なことをしたおかげで大敗した、ということで有名ですね。
これで大敗した宋の襄公でしたが、大敗した失意の中で各国を放浪している重耳を迎えるわけです。歓迎したいが宋には余力がない、せめてもの気持ちということで80頭の馬を贈られるわけです。
そしてその次に重耳は楚へ行くと。
で晋に帰国した後に城濮の戦いとなり、そこで「三舎退く」という楚王との約束を果たしたわけです。
・つまり何が言いたいかと言えば、「宋襄の仁」で有名な宋の襄公がいたわけです。
襄公は矢傷がもとで早々と死んだようですから、この時はもう生きていないかもしれませんが。
この「三舎退く」の流れというのは明らかに「宋襄の仁」を重耳がリスペクトしていると言っていいわけです。
「あーホント馬鹿だね宋の襄公ってのは。
余計なことしてなけりゃあここまで大敗はしなかったろうに」
という世論があり、大敗しただけでなく傷ついた襄公という人がいただろうことは間違いない。
その襄公という人は大敗して自身も矢傷を負っており、失意の中にいただろうことは間違いない。それでも重耳一行をできる限り歓待しようとしたわけです。重耳の恩人なんですよね。
で、重耳は「三舎退く」をして見せると。
襄公をバカにしてる世論に対する反抗であり、「オレは襄公の味方だ」というのを明らかに示していると言える。
つまりこれは楚に対する信義の問題だけではないと。
宋に対するかつての恩義を示すことにもなるし、世論に対する挑戦もしていると言える。
明らかに時代の移り変わりもありますし、もはやそういう時代じゃないわけですけど。でもこれこそが「晋の文公は恩義に厚い男だ」という評価に繋がり、覇者に相応しいという評判に繋がっていったのではないかなと。
・ということで本題からは大分外れましたが、マイナスなことやマイナスな境遇あって喜びが規定されるのだとすれば。
プラスなことで我々はつい一喜一憂しがちなんですけど、実際のところは果たしてそうなのかと言えば結構怪しい。
マイナスなことを大切にしていくことがちょうど重耳のように生きるのではないか、生かせるのではないかという方向性は大切なように思います。
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