菜根譚5、人格を磨く砥石(良薬は口に苦し、の話)






 「耳では聞きたくないことを聞き、心では受け入れたくないことを受け入れる。
 これこそが人が道徳を修め自らの行いを改めるための小さな砥石だと言えるのである。
 もしも言葉が耳を喜ばせるものばかりであり、出来事が全て心を喜ばせるものばかりであれば、自ら猛毒の中にその人生を沈めるような結果となるだろう」


 ・「良薬は口に苦し、忠言は耳に逆らう」とかいうのがあるのでそれを踏まえた言葉なのでしょう。
 この言葉自体は『孔子家語』とかいう本にあるようです。
 http://kotowaza-allguide.com/ri/ryouyakukuchinigashi.html

 でもそれだけなら別に「先人が言ったこれはホント正しいよね」というだけのものでしかないところなんですが。
 それを踏まえて散文的にその言葉を吟味しているところが優れていると思います。
 それによって具体的にどうなるかといえば、ほんのわずかだけ思いや行いを改めることができるのだと。砥石で自らの心をほんのわずか研ぐのに等しいものだという形で表現しています。
 そしてもしこの作用がなかったならば、聞きたいことを聞き、快適なだけであれば、人は心を猛毒に沈めるような結果に陥ると言うことまで言及しています。恐らくはそういう具体例が古代にもあったのでしょう。
 (余談ですが私名言嫌いなんですよね。あれ聞いたことで知ったような気になるじゃないですか。でも実際はそれを聞くのと理解するのとそれを糧として生きていくのとはもう全然違うわけです。だからこそこうした名言を掘り下げる方向性は必要だと思っているんですよね。余談でした)
 

 ・人は努力もし、切磋琢磨もするわけですが、でもそれって何に向かうかといえば快適さだと思うんですよ。
 不快だ、もっと良くなればいいのにと思うからこそ人は改善を考える。
 これは不快だな、めんどくせえな、あ、オレだったらこうするのにな、よしやってみようと思うからこそ改善がなされる。
 改善を考え、その進歩の歴史があるからこそ現代に繋がっていると思えば、快適さは悪だと言いたいのもわからんではないですが、一概にそう切って捨てられるものでもないのかなと。
 私の考えでは快適さが悪なのではないし、不快なものがただいいというわけでもないとは一応思います。
 まあそんなことを言い出したら菜根譚にならないのかもしれませんが(笑)


 ・班超(はんちょう)という武将がいました。
 班超
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E8%B6%85

 彼は40まで大人しく普通に働いていましたが、親が死んだのを機によっしゃ好き勝手生きようと心に決めます。
 これを燕頷投筆(えんがんとうひつ)というそうです。
 燕頷投筆
 https://yoji.jitenon.jp/yojif/2779.html

 「思い切った決意をすること」なんだそうです。
 そりゃまあ大人しく役所で黙々と生きてきたヤツがいきなり武将として生きようとするわけですから。えらい思い切ってますよね。

 燕頷は強く勇ましい人、武人の人相であると。
 投筆は筆を投げるというよりは、筆書という当時の役職を投げ捨てたことに由来するのだそうです。
 
 そして楼蘭(ろうらん)という場所に行きましたが。
 楼蘭
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BC%E8%98%AD

 ここで最初は歓迎されていたはずが、なんか様子がおかしいということで調べてみると匈奴の使いも来ており、どうも楼蘭のやつらは匈奴と手を組む気らしいということがわかります。
 こりゃオレたち皆殺しになるかもということで言うのが、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という有名な言葉ですね。
 虎穴に入らずんば虎子を得ず
 http://kotowaza-allguide.com/ko/koketsuniirazunba.html
 危険を冒さないと虎の子は手に入れることができないという言葉ですね。

 こうして先手を打って匈奴を皆殺しにすればなんとかなるだろうということで36人で匈奴に殴り込み、大勝します。
 西国では、
 「中国ってのはこんなヤバいヤツがいる場所なのか。こりゃ大人しくしとこう」
 ということで班超がいる間はずっと静かにおとなしくしていたそうです。
 こうして30年間、70を過ぎるまで中国の西域で活躍した武将ですね。


 ・なぜここで班超の例を出したかと言えば、親の世話とか大変に退屈だったわけです。班超にとっては。
 でもというか、だからこそというべきかはわかりませんが、班超はこれによって40まで耐えてきた。それが西域で生きていこうとする原動力となったのは間違いないと思うんですよね。
 我慢と忍耐も大切ですけど、それも過ぎれば反動が大きい。
 そうなると感情が暴発してしまって班超のようになる場合も多々あると思うんです。
 40までこうして過ごしてきてしまったという。
 まあ言ってみればやさぐれるといいますかね(笑)
 普通だったら「オレは今日から西国で働く!」みたいなことを言い出したら誰か止めると思うんですよね。バカなことを言うんじゃないと。
この人の兄が班固(はんこ)というこれまた有名な人なんですが。この人止められなかったんだろうか(笑)
 班固
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E5%9B%BA
 
 「漢書」を手掛けた人物のようです。
 まあやさぐれてもそれでうまくいくんならいいですが、うまくいかないことも多々あると思うんです。班超の場合はあまりにもうまくいき過ぎた部類であって。猛毒まみれですよ。
 


 ・ということでまとめたいのですが。
 都合の悪いこと、耳に痛いことからも意味を汲み取っていけるような、一理ある(一理ないことはない)と耳を傾けられるような姿勢があれば、多分都合のいいことからも意味を汲み取ることはできると思うんです(というよりこちらは非常に容易い)。
 そうやって貪欲に意味を汲み取っていくとか、拾い集めていくというような姿勢が重要なんであって。
 そうでなくては、私としては快適さの持つ意味を十分に汲み取れないこともあるのではないかというような気がしてならないんですよね。
 商鞅(しょうおう)の言葉ですけども、
 「改めるからいいというのではなく、慣習を続けるからいいというのではない。
 いいものを選ぶということが重要だ」
 というのがあるわけです。


 耳に痛いことでも受け入れられることは確かに非常に重要です。
 でもその上で、「耳に痛いことは必ずすべていい」というものでもないのだと。
 さらには快適さの先にもきちんと意味を見出せるような形へと変化していくことも重要だし、そうしてあるものはある、ないものはないと見定めていくという姿勢が大切なんじゃないでしょうか。




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