「役に立てるには?」を念頭に置きつつでいきたいかなと。
 孫子、呉子、三十六計終わって戦国策やってます。

 徹底的に噛み砕くことで、お、これもしや実生活に活かせるかも? 
 というレベルにまで落とし込むことが今の目標です。

今日ふと思いついたこと








 ここんとこ塞ぎ込みがちだったのは、いわゆるコロナ鬱というやつの一種だったのかも知れない。パッとしないし外出するにも気軽にってわけにはいかない、さらには猫まで死んじまっていわゆるペットロスというヤツにもなってたのかも知れない。まあもともとが考え込むタイプだし、考え込みたいタイプだってのもあるのだろう。実はけっこう昔から話してる最中に、あれ一体オレは何を言おうとしてたんだっけと目的を忘れてしまうことが多々あって、話すのが苦手ってのもある。その点、こうして書いてまとめるって作業はいい。なんたって本題を忘れる心配がないからだ。
 ということで今日思いついたのが、日本人は根本的に不幸を喜ぶってことだ。
 なぜこうも水は低きに流れるように、悪い結果ばかりが到来するのか。
 なぜ誰もががんばっているのに、結果はそれに伴ってこないのか……それは恐らくは日本人の気質に由来する。
 日本という場所では、不幸ってのがかなり尊ばれているというのが私の率直な感想だ。
 なぜか。
 自分や他者の位置が相対的に決まる日本では、誰かが上がれば上がるほど自分の位置というのは低くなってしまう。相対的な位置というのがあるわけだし、じゃあ誰かがその競争から没落してくれれば、ラッキーとなって誰かが繰り上がってきて順位は相対的に上がることができる。
じゃあ努力しなくても誰かを蹴落とせばいいじゃない、話が早いじゃないってのがこの日本だといえる。まあ例えば台湾でもオードリータンさんという人なんかは「あんたのせいで私の順位がいつまで経っても低いままじゃない」となじられて不登校になったりもしたようだから、この現象は日本特有とは言えないだろう。競争社会そのものが他人の存在や努力が自らの不幸の原因になりかねない節があるといえる……まあこれはここらで置いとくとして。
 じゃあ人の幸せというのは一体何なのかということになる。少なくとも我々の幸不幸というのは相対的に決定されるらしい様相もつかめてきた。となると、我々の幸せそのものが、他人を蹴落とした先にあるといっても間違いじゃないとすらいえると思うわけだ。あいつがいなければ、こいつさえいなければオレの順位はもっと上だったに違いない……こうした心のメカニズムから恐らく我々が一生解き放たれることはない。一生誰かの幸せで突き落とされたように感じ(不幸になる)、誰かの不幸で順位が落ちたかのように感じる(幸せになる)、そうした機構に人生を委ねたままだということになる。すべては相対的に決まっているといっていいわけだ。つまり、根本的に我々は他人の不幸をどこかで望んでいるといってもいい。望まされているといっても間違いじゃない。
 若者が苦労していたらオレの若いころなんてと苦労自慢が始まる。
 自殺して死んだら若い者は忍耐が足りないとなる。
 こうしていったい誰がより不幸なのか、そして一体誰が真に幸福になるべき者であるのかが問われ続けることになる。


 コロナによって高齢者が感染で死ぬか、それとも自粛で若者が経済的に死ぬかを迫られる状況にある、じゃあ次誰が死ぬよというのが常に問われ続けている。誰が不幸になり、誰が幸福になるか。まるで一枚の布団を引っ張り合う一家のように、幸せってのは常時他人の不幸と裏表。誰が、一体どれだけ不幸になるか。犠牲になるか。幸せになるか。望んだ幸福を手にできるかが常に問われ続けている。
 そうして確かに一切のことは相対的に決まるかもしれない、でもじゃあ他人を貶めてまで生きる権利は主張できるものなのか、といえば、どうもそれができる風にこの社会はできているらしい。つぶす権利、貶める権利というのは確かにある、それを主張してもいい……幸せになってもらわないといけないんだけど、同時に自分たちよりも不幸であってもらわないといけない。なぜなら、それによって誰よりも幸せそうになったら、じゃあオレの今までの人生はどうなる。
 それが恐ろしい、だからこそ幸せになれよと苗に水をかけながら、なんでこんなに大きくなってんだよと芽を早いうちに摘まなくてはならない。そういう他人に対する言ってみれば一種の不幸権とでもいうべきものがあり、それに真実性を発揮されると困るという事情もある。でも同時にそこには幸福権もあると思っている……つまり生殺与奪権は、犬の首輪の締め具合を常に調節できるのは、自分でなくてはいけない気が済まないという幸福調整弁というべきものがあるということだ。



 なぜなのか。
 オレは考えた果てにどうもこうしたものがこの社会にはどうやらあるらしいなということを知った。
 だとすればなんて不幸な社会なんだろうか。
 だからこそオレは突破しなくてはならないんだということを思った。全員が全員、絶対的な意味合いで幸福にならなくてはならない。誰もがその生きる権利を摘み取られることなく、しっかりと己の存在を主張し、比較することもなく、暮らしていける社会でなくてはならない。その幸福調整弁……つまり犬っころの首輪みたいなもんが我々の首にぶらさがっている、つまり必要とあれば締め上げ、不必要なら緩めてやる……そんなくそったれな社会は作り替えなくてはならないんだと思った。


 でもこうしたくそったれな社会でも満足感は得ることができる。一生懸命やった、もう悔いはないほどやったと誰もが口にすることはできる。それはまやかしなんだ。
 もっと違う形で、より良い社会を作り上げ、子孫たちがその高い壁にチャレンジするのをやれるもんならやってみやがれということのできるでかい壁にならなくてはいけない。
 大学院を出たら院卒なんて使い物にならないと言い。
 大学出たら大学では使い物にならないと言い。
 そして高卒取るなら中卒でいいよとなる機運がある……そこには一種の合理的思想があるとはいえる。それにこうも高度化した時代でもあるというのも確か。でも見方を変えればこれは愚民政策以外の何物でもない。こうして少しずつ剥がされていき、メイドインジャパンは腐り落ちていき、残ったのは「日本」の看板だけ。古き良き日本という思い出にすがって滅ぶなら一度徹底的に滅んだほうがいい。
 オレはそうじゃない、違う形を目指したいと思った。


 おまけ
 https://www.youtube.com/watch?v=JpnswqrtMT8
 毒蛇は基本的にうまいんだろうか……




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