菜根譚4、清廉と高貴(欲望の自己目的化をしないという話)






 「権力や名声は、近づかない者は清廉と言える。しかしこれに近づいてもそれに染まらない者こそ清廉潔白だと言える。
 権謀術数については、知らない者は気高いと言える。しかしこれを知っていても使わない者こそ高貴だと言えるのである」



 ・これは別の言い方をすれば、権力や名声に近づいて染まる者は低俗だし、権謀術数についても知っていて使う者は野卑だともいえるのでしょう。
 つまり
 清廉→低俗→清廉潔白だし、
 気高い→野卑→高貴
 というような流れがあるんだと。


 じゃあこれを、例えば金について考えてみたとする。
 金にそもそも近づかない者というのは欲望もなく野心も少ない。ある意味で潔白でしょうが。
 金を持ちながらもそれに拘泥しないというのはさらに高尚だといえるとすれば、それは何を持って高尚なのか。恐らく金という何かを得るための手段、それ自体を目的とするか否かが問われるのかなと。
 人の欲望にはキリがないもので、金があればもっと欲しいと思うし、それが手に入ればさらに欲しいと思う。欲望には際限がない。100円が1000円になり、1万円になり10万円になってももっとほしいとおもう。100万でも1000万でもほしいわけです。でもそれって金自体が目的ではあってもそこから何かになるわけではない。金を得ることが目的だし、欲望というのはその額が一桁でも二桁でも増えることが目的化している。自己目的化しているといえる。目的のための手段ではなく、手段のための手段、金のための金と化しているわけですね。
 既にここが不毛といえますよね。
 なんのための金なのかといえば、金のための金だし、金が増えることはいいことなんだという概念に囚われていると言える。
 金だけ増やしていった末にただ死ぬだけだとすれば、金も砂もそこまで大差ありません。
 


 ・蘇秦とかいましたけど、彼は頭が良かった。
 秦が当時頭一つ分抜けて出ていましたが、それなら他の六国を同盟関係におくことで秦に対抗しようと考えたわけです。合従策(がっしょうさく)ですね。
 そしてゆくゆくは六国の宰相を兼ねるどころか、その六国をまとめあげる存在になろうとしたわけです。ということは、かなり早くから「皇帝」的な存在を考えていただろうし、それになりたいなと思っていたのでしょう。
 この菜根譚が清廉潔白で高貴な者の像を示そうとしたのであれば、蘇秦こそがまさに低俗かつ野卑の、言ってみればその理想像の対極にいた人間だと言える。


 ところが蘇秦は殺されるわけです。頭のいい彼ならば刺客を送られることも想像がつきそうなものですが、残念ながら彼は権力を握ることに魅入られていた。
 「しまったッ……!!!」と思ったでしょうけど、もう遅かった。
 一体何のための合従策なのかが忘れ去られ、己がさらなる高みへ、よりもっと高位に就くことこそが目的となっていた。そして欲望と野心の実現のために保身ということも忘れてしまった。そして滅んでしまうわけですね。結果だけみれば、高みを目指すはずがそうして転んで計画は早い段階で頓挫してしまうことになります。素晴らしい計画と頭の良さを持ちながら、あっさり転んでしまった。これでは、その能力がない者と比べてどうなのか。ほとんど変わらんではないかと。



 ・話は一気に変わりますが、劉備は劉表の下で客人となっていた時に、賢者探しに精を出します。
 そして諸葛亮を推挙されるわけですが。
 この賢者というのは、「知っていながら染まることがなく、それを知っていても使わない者」なわけです。
 諸葛亮は天下三分の計を持ちながらも、一切それを使おうとか実現しようということは考えていなかった。能力があるのに使わなかった。それこそが「伏龍」だといえる。
 そういう人だからこそ、高位に就いても私利私欲のためにその知識を濫用とかしない、そういう目途ってのはあったのではないかと思います。

 一方で、楊脩(ようしゅう)という人がいました。
 楊脩についてはこちら
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E4%BF%AE
 この人はものすごく頭のいい人で、曹操の考えていることを見事に見抜くことができました。
 有名なのは、曹操の言った「鶏肋」(けいろく)という言葉から曹操の意図を見抜き、即座に撤退の準備を始めたというくだりでしょう。
 また、曹操に対するベストな受け答え集みたいなものも作っており、これによって曹植(そうしょく)をサポートしていたこともあったとか。
 でもこの人もあまりに頭が切れすぎるので、かえって警戒されて曹操に殺害されています。
 この人の場合は、なんのための知識かというところが、知識のための知識化しているところがあると言える。高得点を取らせ、その結果喜んでもらえたらそりゃ嬉しいんですけど、でもそれは自分の知識が素晴らしいというか、「オレってなんて頭いいんだろう」に返ってきてしまう。知識のための知識だし、オレのための知識、オレって素晴らしいと認識するための知識、そうしていった末にやはり目的が自己目的化を初めているといえるでしょう。


 ・こうして蘇秦と諸葛亮、楊脩の三人を挙げてみましたが。
 蘇秦と楊脩から見えるものというのは、欲望の自己目的化だといえるでしょう。
 名声のための名声。
 知識のための知識。
 そうして突っ走っていき、すごい可能性はありながらも早い段階でつまづいた二人の姿が見て取れます。
 諸葛亮というのはそうではない本当の賢人、という立ち位置ですが。
 この人の立ち位置は、欲望の自己目的化に陥らないこと。自己目的化のループに陥らないこと。そしてそのループに陥って身を滅ぼすことがないということ。
 つまり歴史上のそうして失敗した人たちの失敗例をよく熟知していること。
 そうしたことを身をもって示している例だといえるのではないでしょうか。


 それを踏まえた時に初めて「伏龍」という言葉がより立体的に感じられるようになるのではないかと思います。








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