戦国策100、趙王が虞卿と楼緩二人の話を聞いて逡巡している話
・ということで今回も長文です。
今回で戦国策はとりあえず最終回と致します。
秦は長平の戦いで趙を大いに討ち破り、帰国した。
秦は使者を出して、6つの城を引き渡すことで講和しようと言ったのだが、趙の方ではなかなかまとまらなかった。
そこへ、楼緩(ろうかん)が秦からやって来たので趙王はこの楼緩と共に今後の方針を練ろうと思った。
「秦に城を与えるのは、与えないのとどちらが得策であろうか」
と聞いた。
楼緩はこれを辞退して言った。
「それはこの臣などにはとても分かりかねる話でございます。」
「そうかも知れんが、一つあなたの意見を聞いてみたいのだ」
楼緩は言った。
「それでは趙王におかれましては、かの公甫文伯(こうほぶんぱく)の母の話を御存じでしょうか。
かの者は魯の国で仕官をしておりましたが、病死をしますと後を追って死亡するご婦人方が16人にまで及びました。
しかし、その母は息子が死んだと聞いても泣こうともしませんでした。
そばにいた別の夫人が言いました。
『息子が死んだというのに、泣かぬ母親が一体どこにおりましょう』
その母は答えました。
『孔子は賢人です。
その孔子が魯を追い出された時に、あの子は付いていきませんでした。
今、あの子が死んだ際に16人もの婦人が後を追って死にました。
それというのも、あの子が長者たちに薄弱であり、婦人に対しては情が濃いということを表すものだからなのです』
と申しました。
つまり母親の口から言ったというわけなのですが、これこそまさに賢母です。
しかしこれが妻の口から出たということになればなんと嫉妬深い妻だとの評判は免れないでしょう。
つまり、言葉は同じでも言う者によっては聞き手の心情が変わるものなのです。
今この臣は秦から参りました。
『土地など与えられますな』
といえばそれはもう策にはなりません。
『ぜひ土地を与えられませ』
といえば恐らく王は私が秦のために言っているとお思いでしょう。
ですから答えなかったのです。
ですから、もしこの臣にはかりごとを立てさせていただけるのでありましたら、一応お与えになるべきです、とお答えさせていただきましょう」
王はこれを聞いてわかった、と答えた。
虞卿はこの話を聞くと参内した。
趙王は楼緩の話を虞卿(ぐけい)に伝えた。
「それは見せかけだけの策でございます」
王
「それはどういう意味か」
虞卿
「秦は趙を攻めまして、攻めあぐねて帰ったのでしょうか、それともまだまだ侵攻は可能であったのに王のことを考えてお気の毒に思って攻めなかったのでしょうか」
王
「秦は余力が残っていなかったので、攻めあぐねて帰ったに違いない」
虞卿
「仰る通りです。
秦はその力では取ることのできないものを攻めて、攻めあぐねて帰ったのです。
なのに王はその力では奪い取ることのできないものをわざわざ秦に贈ろうとしておられるのです。
それは秦の手助けをして自らを攻めることになりましょう。
これで来年秦が再び王を攻めるとしたら、もはや助かる手立てがございません」
こうして王は虞卿の言葉を楼緩に告げた。
楼緩は答えた。
「虞卿殿は秦の力がどれほどのものかを知っておられるのだろうか。
秦の力が全く及ばないのでしたら、これっぽっちの土地すらも与えることはないでしょう。
しかし秦が来年また攻めてくるとしたら、王は内地を割譲して講和するようなことが全くなしで収まりましょうか」
王
「あなたの意見を受け入れて割譲するとしたら、来年秦がもう趙を攻めないという保証はおできになるのか」
楼緩は答えた。
「それはこの臣などがお受けできるようなものではございません。
その昔、韓・魏・趙の三晋と秦との関係はなかなかに親密なものでした。
今、秦が韓と魏とを捨て置いて趙ばかり攻めますのは王の秦への仕え方が韓・魏には及ばないからではありませんか。
今、この臣が王のために、秦が攻めてくることがないようにし、関所を開いて贈り物をして、国交を韓・魏と同じにされたとしても、来年になって王ばかりが秦に認められないとすれば、仕え方が韓・魏以下であるからに違いないのです。
このことはこの臣などがお受けできるようなものではございません」
王はこの話をそのまま虞卿に伝えた。
「楼緩の言い分は
『講和しなくては来年秦が攻めてくる、内地を割譲して講和すべきだ』
ということでしたが。
今仮に講和したところで、楼緩には秦が攻めないようにする保証などできないのです。
これで土地を割譲したところで、一体どれほどの利益がありましょうか。
もし来年再び秦が攻めてくるとすれば、秦の力では取れないものを割いて講和せざるを得なくなることでしょう。これは自滅の術だと言えます。
講和しないに越したことはないと思います。
秦がたとえ戦上手でも、六城を取るなどということはできないでしょう。
また趙が仮に守りきれなくても六城を失うほどにはならないはずです。
秦が戦いに疲れて帰れば、兵士は必ず疲弊しております。
つまり我が国は五城を手放して天下の諸侯を味方に付け、疲弊している秦を攻めるのです。
我が国としては五城を天下の諸侯に対して失うのであって、その補償は秦から取るのです。
この場合わが国にはまだ利益があると言えます。
これと土地を自ら割譲し、自らを弱くして秦を強くするのとどちらが上策でしょうか。
また、楼緩は
『秦が韓・魏よりも優先して趙を攻めるのは、仕え方が韓・魏に及ばぬためだ』
と言ったとのことですが、これがまさに王に六城を差し出させて秦に仕えさせようとするものです。
たちまち土地などなくなります。
翌年、秦がまた土地の割譲を求めてきたらどうなさいますか。
与えないとなればそれまで注ぎ込んできたものをすべて捨てて秦の災いを受けることになりましょう。
その時土地を与えようにも、与える土地はなくなっているのです。
ことわざには
『強者は攻め上手で、弱者は守り切れぬ』と申します。
今、秦の言うとおりにされたら秦の兵は疲弊することなく多くの土地を手に入れましょう。
それは趙を弱くし秦を強くすることです。
それによってさらに強くなる秦を富ませて、弱くなる一方の趙の地を割くわけですから、秦の侵略はやむことはないでしょう。
まして秦は虎狼(ころう)の国です。
礼儀の心など持ち合わせておりません。
秦の要求に際限はなく、一方王の土地には限りがあります。
限りのある土地でやむことのない要求に応えていれば、趙の滅亡など見えたも同然です。
そうであればこそ楼緩の話など見せかけだけの説だと申し上げたのです。
王におかれましては決してお与えになってはなりません」
王
「承知した」
これを聞いた楼緩は再度参内した。
王はまた虞卿の言葉をそのまま楼緩に伝えた。
「そうではありません。
虞卿には一つのことはわかっても二つのことは分からんと見えます。
秦と趙とが戦を起こせば天下の諸侯が皆喜ぶのはなぜなのでしょう。
『わしは強い方について弱い方に付け込んでやろう』
と申しています。
今、趙軍は秦軍に苦しめられています。
天下の諸侯から祝賀の使者が続々と秦に来ているに違いないのです。
ですから、速やかに土地を割譲して講和をお求めになり、天下の諸侯を疑わせて秦の歓心を買われるのが良いのです。
さもなければ天下の諸侯は秦の怒りを恃みとし、趙の分割にかかるでしょう。
趙はまさに滅亡の危機にあるのです。
秦に向かって対策を練るどころではありません。
王におかれましては、ここらで決断なさるべきかと」
これを聞いて虞卿が参内した。
「それは偽りです。
楼緩は秦のために策を練っているのであります。
趙軍が秦に苦しめられているのに、その上に土地を割譲して講和してはいよいよ天下の諸侯を疑わせます。
それになぜ、趙が秦の歓心を買わねばならんのです。
それこそまさに趙が秦より弱いことを天下に公示するに等しいものではありませんか。
この臣が
『お与えになってはならない』
と申しますのは、ただ与えるなということではないのです。
秦は六城を王に求めてきていますが、それでは斉に五城を贈りなさい。
斉は秦にとっての仇敵です。
王の五城をもらえば力を合わせて秦を討ってくれることでしょう。
斉がこれを聞き入れますのは、言葉の終わるのを待たぬほど明白でしょう。
王は斉に対して五城を失ってもその代償は秦からお取りになり、一挙に斉・魏・韓の三国と親交を結ぶことで、秦の優位に立つこともできるでしょう」
王はこれを聞いて早速虞卿を使いに出し、東の斉へと送ることで斉と共に秦への対策を図ったのである。
虞卿が使いから戻らぬうちに、秦からの和平の使者がもう趙に着いていた。
楼緩はこの成り行きを聞いて、趙から逃げ去ったのである。
・長平の戦いはこちら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B9%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
BC260、趙兵が20万死亡したと言われる戦いですね。
これは誇張かもしれないとも言われていますが、最近も発掘調査が進められているそうです。
130体分見つかったとのことですが、それ以上はなかなか見つかってはいないようですね。
・公甫文伯(こうほぶんぱく)についてはこちら
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%88%B6%E6%96%87%E4%BC%AF
といってもあまりよくわかりませんが(笑)
孔子が出るときにとりあえずついていかなかった人というくらいで十分でしょう。
・この話のどこがどのように重要かということですが。
「今、秦の言うとおりにされたら秦の兵は疲弊することなく多くの土地を手に入れましょう。
それは趙を弱くし秦を強くすることです。
それによってさらに強くなる秦を富ませて、弱くなる一方の趙の地を割くわけですから、秦の侵略はやむことはないでしょう」
恐らくこの虞卿のセリフは重要ではないかなと。
自分を攻撃している敵に利益を与えたところで敵は図に乗ってますます付け上がってくるだけだ。
しかもそれによって防がねばならないこちらはますます裸にされる一方で。
それならば秦に六城を与えるよりは、斉に五城あげて味方になってもらった方が良いのだと。
実際にその通りにしたのかは不明ですが、非常に合理的な判断だといえます。
・でもここでひとつ疑問が残ります。
長平の戦いの直前に、指揮官が廉頗(れんぱ)から趙括(ちょうかつ)に変わっている、これが決定的になり趙軍は圧倒的な負けをするのですが。
この時虞卿は何か言ったのでしょうか。あるいは文官だからと口が出せなかったのか。
確かに、最悪な状況を防ぐことができなかった状況下でそれでも最善の手を探すのは大切なことですが。
それなら事前にいったい何をしていたんだろうかというのが気になります。
最悪を防ぐことなく、最悪の中で最善を探すというのは何かがおかしいような気がしないでもない。
まあある意味ではその最悪の状況下でもあきらめたり寝返ったりすることなく主君に尽くし続けるというのはすごいことだとは思いますが。
・これから後の時期の趙について、白起が語っているのが戦国策40です。
http://www.kikikikikinta3.com/article/473292295.html?1588990599
楚も韓も魏も趙も負かせたのにはきちんと理由がある。
そしてその理由がない今の趙を負かすことはできないのだと白起は語ります。
事実その通りで、強兵で知られた秦を趙は撃退することに成功し続けます。
「秦は趙軍を長平に破った時に、その機を逸せず趙が震えている時に一気に滅ぼすべきでしたのにそれをせず、秦を恐れたとして許しました。
そうして趙は農事に励んで蓄えを増し、孤児を養い民を増やし、兵器や鎧を修繕して武力を増し、城を増築して防備を固める時間を与えたのです。
趙では君主は臣下に謙虚であり、臣下は必死で戦う兵士に謙虚であります。
平原君ほどの名家の者であっても、妻妾を部隊に送って仕事をさせています。臣民が心を一つにし、上下力を合わせる様は越王句践(こうせん)が会稽(かいけい)で苦しみを耐え忍んだ故事さながらであります」
最悪の時期を乗り切って、趙は誰もが皆協力しているのがわかります。
長平の戦いという最悪の時期を乗り切って趙は初めて一致団結することができた。
こうなるといくら白起が名将で秦兵が強かろうと勝てないものだと。
滅亡の危機を肌で感じて初めて団結した、ということは言ってみれば「背水の陣」に近いものがあるといえるでしょう。理に適っているというより兵法通りだと言えると思います。
・客観的に読むとか学ぶことは必要でしょうが、結局交渉事は主体的に行うということを思えば、よくかみ砕いてその立場に立って行うことは同様に大切なことだといえるでしょう。
小学校とかでも演劇とかで役になりきることをやったりします。
つまり単純に見るだけ、触れるだけなら観客でいいといえる。
そうではないということの価値と重要性を感じますね。
・ということで二年くらい?やってきましたがあと残り386個ありますが(笑)
ひとまず終わりとしまして、そのうちやろうかなと。
次回からは菜根譚をやっていくつもりです。
あと今までのヤツをいったん見返してまたいろいろ感想とか付けていこうかなと思っています。
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