戦国策99、武霊王が胡服騎射を導入する前の話





 ※今回、次回と異常に長いです。

 長いので①~④と分けますが、要するに武霊王という趙王が4人の人と対話をしたということですっ飛ばしてもらってもいいかなと。

 あの野蛮なヤツらの胡服を真似て着る、ということに対していかに当時の人々の強い反発があったかということだけ押さえてあればいいような気がします。




①趙の武霊王(ぶれいおう)はある平穏な日、静かに座っていた。

 肥義(ひぎ)はその側にいて、言った。

 「王に置かれましては、世の移り変わりを思案し、用兵の術を思案なされ、簡子・襄子(かんし、じょうし)の事跡を思い出され、胡狄(こてき)から得る利益を計算なさっておいでなのでしょうか」



 武霊王

 「位を継いだからには、先王の徳を忘れないのが君たる者の道である。

 礼物を差し出して臣となったからには君主の長所を引き出すように務めるのが臣たる者の弁えである。



 賢君は静なる時は民を導き政治に繋がる教えを説くのである。

 行動をする時は古くからある道を明らかにして世に先だって功業を挙げるのである。



 臣下たる者は用いられぬ時は他人に譲る節度を持ち、用いられた時には民を助け君主を利するよう業績を表すのである。

 この二つは、君と臣、ふたつの職分なのだ。


  

 今、私は襄主の功業を継いで胡狄の文明を開こうと思っているが、恐らくは一生かかっても実現はしそうにない。

 相手が弱ければ労力は少なくして成果は多く、民の力を損耗することもなく利益を享受することもできよう。

 そもそも世に高らかな功業を残した者というのは、必ず習俗を捨てたとの非難を受けるものである。

 独創性のある計略を打ち立てた者は必ずや庶民の恨みを蒙るものなのだ。





 今私は胡服を着て騎射し、民を教育しようとしているが、世間では私のことをとやかく言っているのであろう」



 肥義は答えた。

 「この臣は『自信のないまました行動は成功せず、その行いは名声が得られぬ』と聞いております。

 王に置かれましては、非難を負う覚悟を持たれ、人々の話は考えなさいますな。

 最高の徳を目標とする者は世に和せず、大きい功業を為す者は大衆に相談はせぬものです。

 かつて、舜(しゅん)は苗のある地で戦い、堯(ぎょう)は裸で政治をしておりました。しかしそれで欲望を満たそうとしたのではなく、徳を目指し功績を挙げようとしたのです。

 愚者には成功も見えず、知者にはまだ兆しすら見えていないことが見えるものです。

 王に置かれましては速やかに実行なさることです」


 武霊王

 「私は胡服を着ることを決めかねているのではない。

 天下の人々が私を嘲笑することを恐れるのだ。

 狂人の楽しみは、知者から見れば哀れに見える。

 愚か者の笑いは、賢者から見ればかわいそうに見えるものである。

 世間に私にならう者さえいれば、胡服を着る効果が計り知れぬものだとわかるはずだ。

 世が私を嘲笑しようとも、胡地と中山とは私が必ずや手に入れて見せよう」



 ・趙簡子(ちょうかんし)はこちら


 ・趙襄子(ちょうじょうし)はこちら




②こうして武霊王はためらわず胡服を身に着けた。

 そして王孫緤(おうそんせつ)を送り、公子成(せい)に告げさせた。



 「私は以後胡服を着て朝廷に出ることにする。

 ついては叔父上にも胡服を着てもらいたい。

 家にあっては親の言うことを聞き、国にあっては君命に従うこと。

 子は親の言うことを聞き、臣は君主に逆らわぬことが習わしである。

 今、私は範を示して服を改めた。

 ここで叔父上が胡服に改められなければ天下の人々が不要な議論を始めてしまう。それが気がかりです。



 国を治めるのにはまず道があって、民に利益を与えることが根本です。

 政治を行うのには法則があって政令が行われることが最上です。

 徳を明らかにするには、身分の低い者の立場で考えること。

 政令を行き渡らせるには身分の高い者に誠実にすることです。



 今、胡服を着るのは欲望の満足のためではなく、楽しもうとするものではありません。

 何事も始めてみて初めて成果が期待できるものです。

 それが成功して初めて徳が現れると言えます。



 今、叔父上がその政治をとる法則に逆らわれて、公叔の意見に皆が賛同することになるのを私は恐れます。

 私の聞くところでは

 『国家の利益を計る君主は行いによこしまなものがなく、貴戚に頼る君主は名誉を傷つけられない』

 と言います。




 私は臣下が皆公叔の意見に賛同し、胡服を着ることによってその成果を収めたいと思いましたので、この度王孫緤を遣わして叔父上に述べた次第です。

 どうか胡服の着用をお願い申し上げます」



 公子成はこれに対して言った。

 「この臣は王が胡服をされたことを承りました。

 私は今病床に伏しており、参内することができません。

 私の方からお訪ねすべきところを王からお言いつけがありました。

 そのため、これに臣は誠意を尽くして申し上げます。



 『中国は聡明にして叡智の集うところ、物資の集う場所であり聖賢に教化されたるところ。

 仁義の行き渡った場所であり、史書や学問の行われている場所。

 才能や技術の取り立てられるところ。

 遠方の国々の見習うところであり、蛮夷の典型』

 と私は聞いております。


 今、王はわざわざこれらのものを捨てられてわざわざ遠方の国の衣服をまとい、いにしえの教えを捨て、道を変革し。

 学を捨て中国から離れようとなさっております。

 臣は王の再考を願います」


 これを使者は武霊王に報告した。

 「確かに、私も叔父上が病気であると聞いている」

 と言って公叔成の家へと出向いていき、じきじきに要請した。


 「服とは、実用上便利なものであります。

 礼とは、事情に従うものです。

 聖人は場所の状況を見定めて合った服を考え、生活事情に沿った礼を考案したのです。

 これこそが民の利を増し、国を富ませる手段なのです。


 髪は伸ばしっぱなし、体には刺青をいれ腕組みをして左を前の襟とするのは甌越(おうえつ、ベトナム)の民です。

 歯を黒く染め、額に刺青し、鯷魚(ていぎょ、なまずかいわしか)んぽ皮でできた冠をして長い針で縫った目の粗い服を着るのは呉の国の風俗です。

 これほど礼も服も異なっていますが、その習俗に従ったものであることに変わりはないのです。


 所変われば物も変わり、生活が違えば礼も異なるのです。

 聖人はその民に利益をもたらすのならば物を一つに限定はしませんし、その生活に快適さを与えるものであれば礼を揃えたりはしません。

 儒者は師は同じでも礼は異なっていますし、中国は習俗は同じでも教えは様々に分かれています。

 まして山奥の僻地で利便さを求めるのであればなおさらです。

 ある土地に住み着くか否かの決断は知者であっても一定にすることはできず、都から遠い土地と近い土地との服装は聖賢とて一様にはできないものです。

 遠い土地には異なった習俗があり、曲学の徒というのはとかく多弁なものです。

 自分が知らなくても疑うことがなく、意見が違っても人を非難することのない者は公平にして善を求めるものです。

 今、あなたが仰ることは世俗の論でしょう、しかし私が言うのは世俗の論を指導するものなのであります。



 今、わが国には東は黄河があり、斉・中山とこれを共有していますが、役に立つ船舶といったものがありません。

 西は秦・韓との国境がありますが、守備する騎射がありません。

 そこで私は役に立つ船を集めて川辺に住む民を集めて黄河付近を守備させ、また服を着替えて騎射を行い、各国との辺境地帯を守備したいと思うのです。



 昔、簡主は晋陽の険しさによって国をふさがず、上党の地まで国を広げました。

 襄主は西戎(せいじゅう)の地まで広げられ、代の地を取り、胡人を打ち払われた。

 これらは誰もがよく知ることであります。 

 そして先日、中山は斉の力を恃みとして我が国土を侵略し、民を捕虜とし、都市を包囲しました。

 もし神霊の加護がなかったならば、守りきることなどできなかったでしょう。

 先王は憤っており、いまだその怒りを鎮めることはできてはおりません。


 今、騎射の服は、これを用いることで近くは上党の情勢に対応できますし、遠くは中山の恨みに報いることができるのです。

 叔父上におかれましては、中国の習俗に囚われることで簡主・襄主の心に逆らい、服を変えるという名目にこだわって国としての習俗を忘れておられる。

 それは私のあなたへの期待に沿ってはおりません」




 公子成はここで再拝した。

 「臣は愚かにも王の御意向を理解せず、世迷言を申し上げてしまいました。

 王に置かれましては簡主・襄主の御遺志を継いで先王の心に従おうとなさっておいでです。

 これでこの臣が従わぬなどということがありましょうか」

 こうして再拝し、王から胡服を賜った。



③趙文(ちょうぶん)が進み出た。

 「農夫は労働し、位の高い者がこれを養うというのが政治の法則であります。

 愚者が思うところを述べて知者がこれを評論するのが教育の方法です。

 臣下が異心を隠すことなく、主君は忠誠にふたをしないのが国家にとっての福だと言えます。

 この臣は愚か者ではありますが、誠心を尽くそうと思っております」


 武霊王

 「思慮が定まっておれば心に悪い乱れは起こらないものだ。

 忠言には過ちも罪もないものだ。

 思うところを述べてみなさい」


 趙文

 「世に準じて習俗を助けるのがいにしえの政道であります。

 衣服に常態を保つのが礼の制度であります。

 法に従い過ちを犯さぬのが民の職分であります。

 この三つは、先人の説いたことです。

 今、我が君はこれらを捨てて遠方未開人の服を着て、その教えを変え、いにしえの道を変えようとなさっておられます。

 そうであればこそ、私は我が君が再考なさることを願っています」


 武霊王

 「そなたの説は世迷言だ。

 民衆とは習俗に溺れ、学者は聞いたことに耽溺する。

 どちらも官職があり、政治に従う者ではあっても、遠い将来を見越して先駆者となるようなものではない。

 夏・殷・周の三代の王朝はそれぞれ異なった衣服制度をもったのだが、それらは皆王業を為した。

 五覇は教化の方法がそれぞれ違っていましたが、皆政治は安定した。

 知者が教化を行い、愚者は指導される。

 賢者は習俗を定めて、不肖者は大人しく従うのだ。

 定められた服制の従うだけの者とは、意義を論ずる必要がなく、習俗に従うだけの者には考えを分からせる必要はないのだ。

 世の形勢に応じて習俗を変え、世の移り変わりに応じて礼を改めるのが聖人のなさりようである。

 そして教えられた通りに行動し、法に従い勝手なことをしないというのが民の職分なのである。



 学識ある人は聞くにつれて変えることができ、礼の変化に通じていると時世に従って変わることができる。

 自分のためにするならば人に期待しないものである。

 また今日のために制度を改めるにあたってはいにしえに法則は求めないものだ。

 そなたは自説を取り下げなさい」



④これを聞いて趙造が諫めた。

 「心を隠して誠を尽くさぬというのは奸臣だと言えます。

 私心を抱いて国を騙すのは賊臣の仲間です。

 法を犯す者は殺され、国を損なう者は皆殺しとなりますが、この二つの処刑が決められているのは先の世の聖人が示された刑法によるものであり、臣下たる者の大罪だと言えます。

 この臣は愚か者ではありますが、死をも辞さない所存であります」


 武霊王

 「臣が意見を述べて隠さぬのは忠である。

 上に立つ者が臣下の言を覆い塞がぬのは明であるといえる。

 忠であるには身の危険を避けず、明であるには人を拒まぬことだ。

 さあ、意見を述べなさい」


 趙造

 「この臣が聞きますところでは

 『聖人は民を変えぬままに教える。

 知者は習俗を変えぬまま行動させる。

 民のありようのままで教えれば労せずして成果は上がり。

 習俗に逆らわず行動させると理解が容易い』

 と聞いております。


 王が当初からのありようを変えて、習俗に囚われることなく胡服を着させて世俗を無視なさいますことは、民の教化と礼を広めることには繋がりません。

 また服装が奇抜ですと、気持ちも調和を失いますし、習俗が廃れては民情にも影響が出ます。

 政治に携わる方は奇妙な服は着ることなく、中国が蛮夷に近づかぬようすることは民を教化し礼を行き渡らせることではないためです。

 法則にしたがえば過ちはなく、礼に従えば外れることはないものです。

 従いまして、私は王が再考されることを願います」




 武霊王

 「古代と今とではそもそも習俗が異なるのだ。

 一体それではどのような古い習俗に法則を求めるのか。

 帝王となった者は誰も前代の制度を受け継いでなどいないというのに、どの礼に従うのか。

 宓戯・神農(ふつき、しんのう)は教化はしたが殺戮はせず。

 黄帝・堯・舜は殺戮しても怒らず。

 禹・湯・文武の三主ともなれば時世をよく見て法を制し、生活に即して礼を定めたのだ。

 法度も政令も、その時々の時世に従い、衣服も器具も、その用途に適うようにしたのだ。



 世を治めるのに道はひとつとは限らず、国の便を計るには古法に則るとばかりは限らない。

 聖人が帝王となるにあたってはその勢いが生まれるや否や前代の制度を受け継がなくても王となり。

 夏・殷が衰勢に向かうと礼を変えなくても滅亡した。

 そうしてみると、古代の法に反しても間違いとばかりは言えないし、礼に従ったところで取り立てて褒めるべきものはなにもない。

 服装が奇抜であって気持ちが調和を失うというのなら、魯では奇抜な行為をする者はいないということになる。

 習俗が廃れると民情が変わるというなら、呉や越には優れた人物はいないことになる。




 聖人にあっては体にとって便利なものが服なのであり、生活に便利なものが教えだといえる。

 日常作法の節度、衣服の制度では一般民衆を統治する手段であって。賢者を治める作法ではないのである。

 聖人は世相の変化に流れ、賢者は変化に応じて変わる。

 ことわざにも

 『書物で馬を御する者は馬の心が分からない。

 古法によって統治を考える者には事態の変化が掴めない』とある。

 法にばかり従って成し遂げた成果は優れたものだとは言えず、古法には世を治める力はない。

 もう何も言われるな」




 ・こうして武霊王は趙で根強い反感はありながらも胡服を導入し、趙の強国化に成功します。

 かっこの良さではなく、習慣に囚われることなく実用性一点を考えるという奇抜さもそうですが、そのことを理路整然と様々な人に伝えるところなどかなり非凡だなと。

 諸葛亮が呉や蜀でいろいろな人を説き伏せていたようなものに似たものを感じます。

 用意の周到さ、そして人の心に伝わるように語り掛けること、そもそもなぜ胡服なのかということ。

 「論破」できるすごさもそれはあるのですが、論破だけなら別に大したことはないわけです。

 先の先を見据えて妥当かつ合理的に強国化できるということ。

 根強い反発を生みつつも強国化のためなら手段を選ばぬということ。



 しかし最後には自分の子どもたちの反発も受けてしまい、乱に巻き込まれ包囲され餓死して死にます。

 結果から見れば趙にとってどのような影響があっただろうか。

 確かに武霊王は強国化に成功はしたのでしょうし。

 これによって趙という国は賢者や賢人を集める、敬うという風土ができたということにも繋がるのでしょう。

 でもそれはけっこう表向きの話なんじゃないかなと思います。

 こうして悲惨な末路を辿った武霊王を見て「ざまあみろ」とか思ったというのはかなりあると思います。屈辱的な胡服を王が言うから仕方なく着たという強権的な方向性は強く感じます。そしてそれを命令した王が悲惨な末路を辿ったということ。

 それによって人々が溜飲を下げるかのようなものを感じます。



 ・秦は商鞅(しょうおう)が改革することによって一気に強国となりますし。

 楚では呉起(ごき)が改革をしますが、改革はしても呉起を殺害することによって元に戻されるわけです。

 そうした改革と反発というの流れがありました。

 秦で商鞅が改革をして、そのまま殺されますが。

 その10年か20年か後に武霊王が趙王として立つわけです。



 秦でも強国化の流れがあったとはいえまだ日が浅いわけで、そこで趙がもしもまとまって胡服の改革に賛成していたら話はまた違ったのではないかと。

 でも趙は武霊王の後継ぎ問題で荒れてしまい、長期の内乱をする羽目になってしまった。

 詳しくはこちらにありますが、ここで大きく内乱をしている間に周辺諸国が騎馬の戦い方を取り入れてしまい、趙の優位性は崩れてしまったのだということが書いてあります。




 武霊王の記述を読んでいると、当時の人が「あれだけの改革をして人々に屈辱を味わわせたのだからこういう末路を迎えるのも当然だ」と言いたいかのような印象を受けますが。

 呉起、商鞅、武霊王という流れがあると。

 王位にありながら改革によって趙を強国化しようと悪戦苦闘した人として、胡服だけに留まらず、その影響というのは相当大きいように思います。






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