戦国策97、白珪が自分をチクるやつのことはなんともできませんわーという話






 白珪(はくけい)は新城君(しんじょうくん)に言った。
 「夜道を行く人は盗むなど働かないようにはできますが、犬を自分に吠えさせないようにすることはできません。
 この臣は、我が君のことを王の前でとやかく言わないことはできます。
 しかし他人がこの臣のことを我が君の前でとやかく言うのを止めることなどはできません」



 ・凄まじく短い話ですが。
 ここ最近チクったりチクられたりといった話が続いていたのでその系統の話なのかなと。

 
 新城君(しんじょうくん)についても白珪についても調べてもほとんどでてきませんね。
 こちらにわずかに新城君についての記述があります。
 https://chinahistory.web.fc2.com/book18.html
 91~92あたりですね。

 ・新城ってのは大体湖北省あたりになるそうです。今話題の武漢市があるあたりですね。
 つまり赤壁とかがあるあたりでありますが。でもそうなると範囲は荊州であり、楚の領土になるんですよね。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%96%E5%8C%97%E7%9C%81
 そういえば、三国時代には孟達(もうたつ)という武将が蜀から魏へと寝返った後に新城という城を任されてます。 


 となると微妙に違う可能性がある気がします。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%B5%B7
 こちらに「白起が韓の新城を攻めた」とありますので、どうも韓にも新城というのがあるらしいぞと。
 となると魏か韓あたりに新城があり、そこの土地を「任された」意味で新城君なのかなと。


 ・ということでこちらになるんですが、伊闕の戦い(いけつのたたかい)で白起が新城を取ったと。
 その新城は河南省洛陽市なんだとあります。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%97%95%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 河南省についてはこちら
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8D%97%E7%9C%81
 「黄河の南で河南省」なるほどですね。覚えやすい。
 洛陽があったり、韓の領土になる前は鄭(てい)という名前だったと。
 洛陽と言えば、三国時代に董卓が強制遷都を行って焼け野原になった場所として有名ですね。


 ・さて。
 この話も讒言(ざんげん)の話ですね。
 人が人を貶めるために君主とかに告げ口したりする。そして失脚とかしてくれれば自動的に自分がその地位に繰り上がる。また直接そうならなかったにしろ、君臣関係を疑心暗鬼に陥れれば国はもう機能しなくなったも同然です。こうして常に問われているのが君臣関係、あるいは臣下同士の関係性だと言えると思います。
 でもそれを言うだけなら今までの話で十分といえば十分のはずです。
 ではここで一体何を言いたいのか。
 それを解くヒントは恐らくこれが魏の昭王の代の時にどうも書かれたらしいという記述がヒントになるかと思われます。


 魏の昭王はこちら
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E7%8E%8B_(%E9%AD%8F)
 どうも白珪の言っていた王はどうやら昭王であり、我が君は新城君であるらしいことがわかりました。
 この王の時に伊闕の戦い(いけつのたたかい)があったことも分かりました。
 秦の白起によって魏と韓の連合軍がぼろ負けしたという話ですね。
 
 

 このことについては、白起がちょっとだけ触れている話がありました。
 戦国策40ですね。
 http://www.kikikikikinta3.com/article/473292295.html?1588549441
 なんで将軍は趙を攻めないんですか、あなたはかつて魏軍24万を殺したこともあるでしょうにと言われたら、いやあれは韓と魏とで足並みがそろってなかったのだと言っています。
 「神懸かりの用兵術」であり、「白起が来たら泣く子も黙る」状態だったのですがしかし至って本人は冷静で、魏と韓の情勢をよく把握していたわけですね。
 

 ここで重要なのは韓は魏に攻めて欲しいし、魏としては韓の精鋭部隊がいるじゃないかと言ってどうももめていたらしいことだと。
 損害は他方に任せ、うまみは自分が取ろうとする。
 そうした分裂であり、仲たがいが韓と魏との間に起きていたらしいことですね。
 一応同盟関係ではありましたが、うまくいってなかったようであり、白起もそれを作戦の中に入れて計算しています。
 韓の精鋭部隊はとりあえずおとりに引き付けさせておく。
 で、その間にとりあえず魏は壊滅させてその後に韓を集中攻撃すると。
 これがうまくいって韓と魏は壊滅状態にできるわけです。


 ・まあ韓と魏とがこうして分裂気味だったことはわかりました。
 でも詳細にみていくと、魏の内部もなんだか不穏な空気感があるようです。
 白珪が新城君に言いたいのは、昭王に対して自分は新城君を悪く言ったりはしませんけど、他のヤツが新城君にチクって自分が陥れられるのを防ぐことはできませんと言っています。


 つまり、魏の内部もまた団結していたとは言い難いといえる。
 誰かを陥れ失脚させれば自動的に順位は繰り上げられる。つまり努力をするより失脚させろという空気感があったのでしょう。
 そして厄介ごとや責任の重いことは他人になすりつける。ハメてやるということがいかに手段として有効であるかともいえるでしょう。
 となると、優秀さや有能さはそれ自体としてありますが、こうした策謀にかからないようにする、ハメられないという政治的配慮、そうしたものも別な面での優秀さや有能さを示しているともいえるでしょう。
 こうして前向きな努力とは別にして、後ろ向きな方向性での努力が必要とされていた。力を削がれていたし、前に進む前に後ろのことを射にしなくてはならない状況があったことをこれは表しているといえるでしょう。


 ・一方の秦は国力は充実していますし。
 王は昭襄王、宰相は范雎(はんしょ)が務めており、将軍としては白起が非常に優秀な戦績を残しています。
 必ずしも秦出身の者ばかりではありませんが、かといって出自を気にして裏切るのではないかと気にするようなこともありません。范雎の出身が魏だからといって魏に肩入れするのではないか?という不安感もないわけです(まあそれどころか范雎は出身国である魏に対して凄まじいほどの憎しみを抱いていますが)。


 ・確かにこの100年ほど前に商鞅(しょうおう)という人は出ましたが。
 商鞅についてはこちら
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85

 でもこれだけなら単純に強国化できただけの話です。
 いくら強国となろうとも、分裂し内乱を繰り返しているだけではせっかくの力をすり減らすだけのことでしかない。前に向かって努力しようと思っていたら後ろから狙われるようなことではまともな国政運営も危ういと言えるでしょう。
 ではそういう危険性が全く秦になかったかといえば、そんなことはないわけです。
 
 秦には魏冄(ぎぜん)という人がいました。
 魏冄についてはこちら
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E3%82%BC%E3%83%B3
 昭襄王の恩人であり、范雎が来る前の宰相を務めていた人物です。
 
 この人は攻め取った領地を自分のものにするなど好き勝手していましたが、昭襄王も恩人なので強く言えないわけです。
 でも范雎はこの人を追放すべきだと主張しました。
 そして魏冄は追放され、秦国は一本化されることになります。


 ・この范雎という人の意見は単純に「魏冄を追放しろ」というものですが。
 でもそれによって秦を一枚にまとめようという方向性があったわけです。
 そして確かに一枚岩の国となることができた。
 魏冄も特に内乱とかしようともせずに素直に追放されたわけです。
 どこかに力が逸れることもなく、まとまって運営することが可能になった。これは非常に大きいと言えるでしょう。


 ・例えば楚なんかは昭奚恤(しょうけいじゅつ)という周辺の国々から恐れられていた非常に優秀な宰相がいました。
 戦国策87あたりに出てます。
 http://www.kikikikikinta3.com/article/474739270.html?1588572462
 彼は優秀でしたが、王が常時疑っていたことがよくわかります。
 いくら優秀であっても、常に王に睨まれていたらそりゃろくに力を発揮できなくても仕方がないでしょう。


 ・そして今回の魏と韓です。
 韓の精鋭部隊は強国秦にも恐れられるほどということですが、韓と魏が仲たがいしている間に魏は壊滅し、そのまま韓も撃破されました。
 まとまらなければ各個撃破されるだけですね。
 こうしたことを踏まえてこの白珪という人の言葉を見ると、非常に重要なことを言っているなというのがよくわかります。
 結局まとまって運営することができないのでは烏合の衆(うごうのしゅう)に等しいといえる。


 前に進もうとすれば後ろから足を掬われかねない。
 足を掬われないように後ろに気を付けていれば、前にすすむことができない。
 恐らくこうした魏の状態をなんとかしたかったのが白珪という人だったのではないか、白珪という人の本当の主張というのはこれだったのではないかと考えることができるでしょう。
 

 ・そういう意味で、秦という国は范雎の進言によって内乱や分裂の芽を完全に摘み取ることができたといえる。
 商鞅の改革も確かにそりゃすごかったかもしれませんが、范雎のによる秦の体制の一本化の方向性の持つ意味も決して小さくないのではないか、ということを結論として今回は終わろうと思います。










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