戦国策93、孟嘗君(もうしょうくん)が趙王に借りた土地をなるべくそのままにしようとする話






 趙王は孟嘗君(もうしょうくん)を武城に封じた。
 孟嘗君は自らの食客の中から役人を選んだのだが、彼らを送るに際して言った。

 「ことわざに、
 『人の車を借りた者はむやみと走らせる。
  人の着物を借りた者はやたらに着る』
 と言ってはいないか」

 と聞くと誰もが
 「そのように申します」
 と答えた。


 孟嘗君
 「私はそれに賛成できないのです。
 車を借りる相手などというものは親友でなければ兄弟になるでしょう。
 親友の車をやたらと走らせ、兄弟の着物をやたらに着たがることなど、本来はよくないことだと思うのです。

 今、趙王は不肖の私を武城に封じてくださったのだが。
 あなたがたが行かれたらどうか一本の樹も切らず、一軒の家も壊さないでもらいたい。
 何もしないでおいたことを趙王が悟り、この私の配慮を知ってもらうようにしたいのです。
 このことを常日頃心して、そのままお返しができるようにとしてもらいたいのです」


 ・かの司馬遼太郎は、「楽毅」とか「孟嘗君」といった小説を書いた宮城谷昌光さんに対して、
 「よくもまああの孟嘗君みたいなつまらん人物を、こうも面白く書けましたな」
 と言ったのだそうです。今探してみてもちょっと見当たりませんが、どっかの本の中だったかな。




 ・で、孟嘗君は「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」という言葉でも有名です。
 秦王(恐らく時代的に昭襄王)に招かれて斉から秦へと行きましたが。
 秦王に気に入られて秦の宰相にしようとしたら
 「いや、でも孟嘗君は斉の人ですから。斉にとって有利なようにするに違いないですよ」
 と言われ。
 「そうだった。どうしたらいい?」
 「殺してしまいなさい」
 となります。

 で、ここから孟嘗君の脱出劇が始まるのですが。これは中学とかの教科書でもお馴染みのくだりだと思います。



 ・「鶏鳴狗盗」自体は「つまらんやつだ」という意味合いがあります。
 盗んだりニワトリの鳴きまねをしたり、そういう卑しいことしかできんのかという皮肉ったような見方にもなれば。
 これをプラスに解釈して
 「しょうもない取るに足りんような人間でも、時と場合によっては役に立つこともある」
 というような意味合いにもなったりもするようです。
 「枯れ木も山の賑わい」みたいな感じが近いでしょうかね。
 とりあえずこちらにリンクを貼っておきます。
 鶏鳴狗盗




 ・考えてみれば、斉の王族でありながら秦に招かれたり隣の魏に行ったり。
 あるいはこの話のように趙へと行けるとか土地を封じられるというのはかなり珍しい話だと言えるでしょう。
 張儀や蘇秦などは「縦横家」(しょうおうか、じゅうおうかとも)として中国全土を走り回って外交をして回りました。それも弁舌の才能があったからの話であり、孟嘗君自体は別に縦横家でもなんでもないわけです。王族ということだけなら、秦でも楚でもたくさんいたでしょうが、似たような話はあまり聞きません。
 例えば楽毅(がっき)などは趙でも燕でも高位についておりますが、武将として優秀で武名も広く聞こえていますし。外交の感覚や弁舌にも長けていますし、その忠義心も広く知られている。そういうのがあって成り立っているのでかなり例外的な感じです。一応他にいないことはないですが、かなり少数だと。
 孟嘗君もこっちの例外的な方に当たると思います。そうなると、ここには何かがあるように思われます。




 ・ここで、じゃあ果たしてどこまで孟嘗君は優秀だったのかを考えたいなと思います。
 武術はと言ったら聞きませんし、知略はといったらやはり聞きません。
 人を見る目は、といったら特に優れているわけでもない。
 「鶏鳴狗盗」の故事からもわかるように、孟嘗君自体は盗むのが得意なヤツでもニワトリの鳴きまねが得意なヤツでもとにかく見境なく採用していたわけです。それが孟嘗君の危難に際してたまたま役に立ったわけですが、言って見ればこれはかなり棚ぼたのラッキーだったと言えるでしょう。武術に秀でるとか、何々の思想に精通しているとか、そういう基準で人を採用しているわけではないわけです。で、それがたまたま盗みだのニワトリの鳴きまねだので役に立ったに過ぎない。そこには思想や信念といったものを嗅ぎ取る余地はほぼないと言っていいでしょう。


 ・その鶏鳴狗盗の話の延長線上で、この話を考えるとすれば。
 確かに趙王から武城という土地は授けられたでしょう。
 もし内政とか政治とかにものすごい興味と才能を発揮していたら、恐らく何ひとつ迷うことなく大々的に工事を開始したんじゃないかなと。そりゃそうです、土地を封じられて好きにしていいよと言われたから持てる才能と資金を投資してガンガン開発しました、それで利益でも上がるようになれば趙王の懐事情もかなり潤うかもしれません。


 でもそうではないと孟嘗君は言うわけです。
 趙王から親しくしてもらった、その親しい人から土地を借りた。
 その土地をガンガン使うのってどうなのと。
 借りたものを大切にし、土地も領民も大切に扱う。そしていつの日かそのままそっくり趙王にお返しする。それを心掛けていることがここからは読み取れます。
 「優秀かどうか」
 というくくりで考えたら、決して優秀だとは測れませんし、むしろ凡庸と出るかも知れません。
 でもとりあえずここから言えることは、孟嘗君はどうやらいい人っぽいぞとは言えるでしょう。



 ・さらに話は飛びますが、「宋襄の仁」(そうじょうのじん)という言葉があります。
 意味としてはつまらん情けとか、そのつまらん情けをかけてしまったことによって痛い目に遭うことだとか出てきます。
 これもリンクを貼っておきます。
 「宋襄の仁」


 宋という国の襄公という人が、楚と戦ったときに楚軍が川を渡りきるまで待ったのだと。
 「いまなら大いに破れます、攻撃しましょう」
 といくら言われても、いやそんなことは武人としてできるものではない、人としていかんだろうと言った末に楚によってボロボロにされてしまうと。大敗してしまうわけですね。
 だからその意味でこの宋の襄公は後世でも言ってみればバカなヤツの代名詞的な存在になっています。



 でも詳しく見てみるとこれちょっと事情が違うようなんですよね。
 その襄公の少し前の時代などでは、「聖人」的な立ち位置や物の考え方が尊重されていたのだと。
 でも時代は移り変わるわけです。
 合理的な考え方、少しでも敵に対して有利になるように働きかける、そうしたことが思想としてでてくるわけですね。これによって「優秀」
というような物の考え方や合理的という方向性が如実に表れるようになっていったわけです。
 その時代の大体転換点に、ちょうどこの宋の襄公あたりがいたのではないかと言われています。



 そして、確かにこの襄公は「アホの代名詞」になりました。
 しかし同時に、これだけ思想が合理的な方向へと変化している時代に、これだけいにしえの聖君としての様式を守ろうとしたことは立派だと賛美する流れも中国にはどうもあるようなんですよね。言ってみればドン・キホーテみたいな話です。騎士がいくら素晴らしいからって、騎士道が廃れた時代に騎士とかって言ったら噴飯ものでしょう。銃のある時代に槍こそが騎士、というような話です。

 冗談も大概にせえよという流れと、美しい本来あるべき騎士道を賛美したい流れとがあるわけです。
 そういう形でこの宋の襄公もあるのだと。
 だから言ってみれば中国版のドン・キホーテみたいに捉えるとわかりやすいでしょうか。
 この流れはつい最近私も知りましたが。
 だからこの襄公を愚かだとかバカだとかだけで評価すると、襄公の行動の理由や意味、当時の物の見方を見誤るよということですね。
 一応、宋の襄公はこちら



 ・さて。
 そうして孟嘗君は宋の襄公から400年くらい後に生まれているわけですが。
 基準が少しズレていることがわかります。
 採用する基準は優秀であるかないか、武名や高名があるかないかではない。
 「一芸に秀でていればなんでもいいよ」とばかりに食客を集めてその数は3000を数えるほどになったということです.
 これは見方によっては「基準も特に設けず、理想も信条もなく、来たヤツを片っ端から先生にしてしまう」わけですから、全然優秀さを感じさせるものではありません。
 でも別な見方をすると、小さなつまらないこととか優秀さ、合理性にこだわらない鷹揚さを感じさせたかもしれない。



 趙王に借りた土地を最大限に活用し利益を……とやっていれば確かにそりゃ優秀でしょう。
 でもそうではない。
 趙王からそれだけの信を得たんだと。
 その趙王の恩義と心意義に報いたい、ならばその借りたものを大切に扱い、そのまま返すことを心掛けるのだと。恐らくこうした心遣いというのは当時もですが、今日になってみるとより理解しがたいものだといえるのではないでしょうか。そこには優秀さはないんですけど、もちろん合理性もないわけですが、そうした物差しとは違ったものがどうも一本あるらしいことが分かってきます。恐らくここにあるものは、「宋襄の仁」とかなり近いものなんですよね。

 ということで、そうした方向でこの孟嘗君という人を見る必要があるんじゃないかなという話でした。




 ・ところで、さらに時代は下って。
 三国時代に薛綜(せっそう、せつそう)という武将がいます。
 薛綜
 この人は孟嘗君の子孫にあたるのだそうです。
 孟嘗君は斉で「薛」(せつ)という土地を与えられました。
 なので薛公(せつこう)とも呼ばれていたということです。
 その子孫が孟嘗君の時代から500年ほど経って呉で活躍していたと考えると、歴史のロマンを感じられるなあと。
 まああくまで可能性があるという話なのでしょうけどもね。







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