キュアンの死
・キュアンというこの男は、このファイアーエムブレム聖戦の系譜という作品とこの次の作品であるトラキア776を通して描かれることになる。
主人公シグルドの親友という子の立ち位置は主役級と言っていい立ち位置にも関わらず、実際のこの男の描かれ方はあまりいいものだとは言えない。
・トラキアという地を支配しているのはトラバントという男であるのだが。
作品中でこのトラキアという土地とそこに住む人々は何度も「ハイエナ」と呼ばれ蔑まれている。その「ハイエナ」という呼称を恐らくは一番多く使う男がこのキュアンである(といっても二回だけど(笑))。
キュアンの中では、金のためならどんな汚い仕事でも請け負う節操のないこのトラキアという土地に住む連中は卑しい連中であり、殺されたとしても文句が言えないような、とにかく卑怯であくどいヤツらだというような認識がある。
ただ金によって動くトラキアの連中は騎士道に照らし合わせれば誇りや正義感など全くない連中というわけだ。とにかく金さえ積まれれば雇い主のいいように動く。正々堂々という価値観もなく、とにかく勝てばいい、契約に従ってどんな手を使っても相手を殺すなりなんなりできればいいのだというようなその価値観がキュアンには到底許すことができない。
そうしたキュアンの怒りや憤り、そしてトラキアの人々に対する侮蔑や蔑みの感情が即ち「ハイエナ」という呼称によってあらわされていると言っていいだろう。
・こうしてキュアンは妻を殺され、娘を人質に取られる。
自尊心高く誇り高い男が自ら「ハイエナ」と呼ぶ存在に屈する。
自らのアイデンティティとほぼ同一であると言っても過言ではない地槍ゲイボルグを捨てる。
そして一方的に嬲り殺し(なぶりごろし)にされるのである。
最初は悲壮的であり衝撃的に見えたこのキュアンの死も、物語が進むにつれてその様相を大きく変えることになる。
あれだけ散々「ハイエナ呼ばわり」してたキュアンの方が逆にちょっとどうなの?という印象に変わることになる。
極端に言えば、ちょっと人格を疑われる……と言っても過言ではないのだが(笑)
とりあえずここで問題にしたいのはそっちではないので省く。
・果たして、殺されるときにキュアンは自分の過去を後悔したのだろうか。
妻を連れてきているどころか、娘まで連れてきていること。
万が一に備えていなかったこと。
妻が殺され、娘を人質に取られたこと。
そしてこれがあるがためにキュアンはキュアンである……その誇りであるゲイボルグを捨てたこと。
娘の命と引き換えに、愛する存在のためにとはいえ、自らの最も大切なものを捨てる苦しみ、そして誇りもクソもなく一方的に嬲り殺しにされる苦しみというのは果たしてどれほどのものだろう。
そしてそうでもして助けたいということは。
助けたい、救いたいという思いのために何もかもなくした。
今まで築き上げてきたもの、キュアンの人生のすべてと呼べるもの、大切なもの全てを踏みにじられてでも、娘のためにその全てを捨てることをキュアンは選び取る。
誇り高い男はこうして無残な死を遂げることになる。
・キュアンの娘もその愛槍もトラバントはトラキアに持って帰る。
そして自分の娘として育てることにするのだが。
この形というのはキュアンにとって最大の屈辱だったろうか。
非業の死を遂げただけでも無念だろうに、さらに敵国にさらわれるという追い打ちだったろうか。
娘だけでも助かった、即ちあのハイエナの王トラバントが約束を守ったというのはせめてもの慰めだったのだろうか。
そんなことは知る由もない。
とりあえず動画はこちら。
https://youtu.be/7ucJwwFqN5c
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