戦国策66、范雎が王に追放のすすめをする話
今回もまた大変に長いですね。
ひたすら范雎(はんしょ)が語っています。
応侯(范雎)は昭王に申し上げた。
「恒思(こうし)という場所に鎮守の森があったのを御存じでしょうか。
そこに向こう見ずの若者がおりまして、この森と双六(すごろく)をしようと思いました。
『俺がお前に勝ったら、俺に神様を三日間だけ貸してくれ。
俺が負けたら、好きなようにしろ』
そう言って、左手で森の分のさいころを、右手で自分の分のさいころを投げて、森に勝ちました。
森はこうして神を三日間貸し出しましたが、若者はとうとう神を返しませんでした。
五日経って森は枯れ、七日経つと森はなくなりました。
今の秦の国は王にとっての森であり、朝廷は王にとっての神だと言えます。
神を他人に貸し出して、それで危険がなく済むものでしょうか。
ところでこの臣は、指が肘よりも太く、肘が太腿よりも太いなどという話を聞いたためしがありません。
そんな人がありましたら、恐らくはひどい病にちがいありません。
百人がかりで盃を持ち運ぶよりは、一人で持った方が速いものです。
もし本気で百人で行った場合には、盃は壊れるに違いありません。
今の秦国は華陽君(かようくん)が取り仕切り、穰侯も取り仕切り、太后も取り仕切っており、そして王も取り仕切っておられます。
盃が器として使えないものであればそれまでのことですが、器として使えるものである限りは国は裂けるに違いありません。
この臣は、
『実がたくさん成れば、枝は折れるに決まっている。
枝が折れれば幹まで痛む。
都が大きくなれば国が傾き、臣下が強くなれば主君が危うい』
と聞いております。
秦に邑(ゆう、村のこと)はたくさんありますが、そこでの小役人を始め王の側近においても相国(しょうこく、大臣のこと)である穰侯の息のかかっていない者がどこまでおりましょうか。
これで何も起こらなければよいのですが、私には有事の際に王がたった一人で朝廷に出て行かれる姿が目に浮かぶかのようです。
このことを私は憂慮しております。
後世ではこの秦を保つ方は、王の御子孫ではないのではないかと思うのです。
私は、
『古来より政治に巧みな君主は、その威勢は国内においては保持され、その功績は国外にも行き渡り、四方よく治まる。
政治は秩序を乱すことなく道理にも逆らわない。
外へ使いする者は道理に従い真っ直ぐに行動し、道理に外れたことはしない』
と聞いております。
ところが今、太后の使者である穰侯は諸侯の中を裂き、兵符を天下の諸侯に分け与え、大国であることを鼻にかけ、強引に徴兵を行い、諸侯を討伐しております。
戦って勝ち、攻め取った土地はすべて穰侯の土地となり、国への礼物は太后の家に収められ、上がった利益はすべて華陽君の懐に入っております。
古来からいうところの
『君主の地位を危うくして国を亡ぼす』
というところのこれが出発点であるに違いありません。
三人の高位の方々が皆国の利益を吸い尽くして、安楽に暮らしておられます。
これではどうして政令が王から出せるのでしょう。
政権がどうして分裂せずにおられるものでしょうか。
こうして王は、本来の権力の三分の一の座にお座りなのでございます」
・長いですけど、言いたいことは一つですね。
范雎(はんしょ)は昭襄王に、他の権力者を全員追放しろ、王権を取り戻せと。
ここで先に手を打たなかったら、先に首を取られるのは王の方ですよと言っています。
これによって全員追放することを決定し、権力を取り返した後に諸国から恐れられる昭襄王ですが、この頃はまだ国内に立場がなく、むしろ危ういくらいの立ち位置だってのが興味深いところですね。
范雎についてはこちら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E9%9B%8E
昭襄王についてはこちら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E8%A5%84%E7%8E%8B_(%E7%A7%A6)
紀元前306~251まで即位していたようです。
55年くらい王であって、范雎がやってきたのは紀元前271くらい。
となるとつまり即位から35年くらい経った頃にやってきて、残り20年くらい仕えたようです。
そして最近の研究では、途中で連座制によってどうも范雎は処刑されたらしいと。
・華陽君(かようくん)という人が出てますが、華陽太后についてはこちら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E
楚から秦へと嫁いできており、始皇帝の父に当たる人(子楚、しそ)の継母となったと。
で、昭襄王が死んで次代の孝文王となる。
ところがこの人は三日で死んでしまい、そのまま子楚が孝文王の次の王となり、荘襄王となるわけですね。
この荘襄王が三年で死に、そのまま始皇帝の代になるという流れのようですね。
華陽君ってのはこの人の夫に当たる人で、つまり昭襄王の次男に当たる人のようです。
・穰侯(じょうこう、魏冄ぎぜん)についてはこちら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E3%82%BC%E3%83%B3
陶公ともいうようです。
先代の恵文君が死んだときにこの人が「次代はあの人がいい」と燕にいた太子を呼び寄せて、その人が昭襄王になったと。
昭襄王としてはじゃあ一生魏冄には頭が上がらんだろうなと思われますね(笑)
で、范雎がやってきて昭襄王に説いたおかげで紀元前265年くらいに追放されたと。35年くらい秦で好き勝手できたわけですね。
白起を使っておりどこへ行っても百戦連勝、それで自分たちの土地を増やしていたのに追放されたので土地は昭襄王のものになったと。
結果的にはこの人が好き勝手していたおかげで、秦を強くすることに貢献したと言えるのではないでしょうか。
この人が追放された後も白起は将軍として使われていたってことも重要ですね。
・言いたいことは王権を復活させろと。
権力握っている奴らが好き勝手やってのさばっていては国が亡ぶぞと。
一刻も早く追放しろと繰り返し言っています。
・戦国策としてはこれ何が言いたいんだろうかと思ったんですが。
ここがまさに歴史の分岐点であり、范雎の言葉を昭襄王が受け入れ、それによって秦が変わるというまさにその変わり目がこれですってことで取り上げたかったんじゃないかなと思います。強国である秦がさらに強くなる。そうした一手に繋がったのだと。
・ところでこの昭襄王の母が、宣太后(せんたいこう)になります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%A4%AA%E5%90%8E
この人も絶大な権力を持ち、秦内で華陽君と共に権勢を振るっており、「三貴」と呼ばれていたということのようです。
・ところで戦国策57で、諒毅(りょうき)という人が趙から秦に出かける話がありましたが。
http://www.kikikikikinta3.com/article/473756213.html?1583809170
これで葉陽君と涇陽君という王の弟はどう思いますかねえと諒毅は言っていますが。
これは恐らく、昭襄王が秦内で身動きが取れていない状態を暗にほのめかしていると言えるでしょう。
まだ弟たちが追放されていないということは秦が一つでなく、統制がとれていない。
その状況下では、交渉一つもうまくやれない。
やろうとしてもそっちを気にしなくてはならず、思うように身動きが取れていないことを示していると思います。
秦側から見れば、せっかくうまくいっている流れも頓挫せざるを得ず、思うように物事が進まない王の苛立ちと葛藤があると思っていい話だと言えると思います。
せっかくの趙を攻める好機なのに、見逃すほかないという話なんでしょうね。
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