聖性という認められた復讐様式






 ・久々にFE4、聖戦の系譜についての話になります。


 ・この話には「親の仇」という正当化された復讐様式があり、それに従って子世代の面々は妥当アルヴィスで戦っていき、そしてアルヴィスを見事倒すのである。
 でもこれだと江戸時代によくある「父の仇!」と言って刀で仇を斬り殺して「父上!仇は取りました!」と涙する、いわゆるよくあるヤツとなんらかわらないし、つまりはこのままでは単なるよくある復讐を西洋風なメンツを揃えて和風に果たす、というものでしかないと言っても差し支えないものであると言っていい。単なる正当化された復讐を果たすだけのものであり、つまりはそれだけのものでしかない。親が殺された以上は黙っていることはできず、何もしないことは子どもにとっての恥でもあり、また世間一般もアルヴィス皇帝に恨みを抱いているため、ますますその流れは肯定されるし、逆らえないものともなる。つまり一人一人の内面にもそれを果たさなくてはならない必然はあるし、外部にもその理由を探そうと思えばそれはいくらでも見つけられるのである。


 ・この聖戦の系譜にあるその「聖性」とはなにか、聖なる戦いとして肯定されるもの、正当化されるものとはなにかといえば、つまりその二つの流れがあるといえる。即ち内面的なものと、外面的なものとがあるわけだが、そのどちらに転んでも非常に危ういものをはらんでいると言える。個人的な恨みだけで突っ走っては誰もそれをよしとはしないだろうし、かといって個人的にやる気もないのに周りの人々の持つ熱気だけで押されて果たされる仇討ちなど最早仇討ちでもなんでもないのである。それを思えば戦うこと、他者を殺すこと、ましてそれに聖性が付与されることは本来は非常に困難な話だといっていいだろう。人殺しなど本来そう簡単に正当化されるものではないのである。


 ・そうした困難の上でこの話は復讐譚として成立している。無論内面的にも外面的にも理由は揃った上での話であり、揃っているがゆえに殺害は許される。それどころか「聖性」が付与されるわけである。


 ・そうしてキュアンの子リーフはトラバントを殺害する。不意打ちによって親を殺されたリーフは、トラバントを殺して親の仇を取ることに成功する。
 「そして、キュアンはそれに対して特に何も言わないのである。」それは当然果たされるべきことであり、果たされたそれに当然満足しているだろうし、敢えてその後付け加えるべき内容もないのである。既に完成された殺害様式に対し、100%の成果を実現させた息子リーフに満足はしてもそれ以上言うことなどあろうはずがないのである。
 卑しいハイエナどもは当然のように殺害された。
 情をかける必要もない。
 奴らはハイエナであり、ただ単に卑しい連中は綺麗さっぱり掃除されたというだけの話でしかない。
 そこにはそれ以上の意味など持たせる必要がない。何物かが介入する余地など、これっぽっちもないのである。



 ・そしてその後、シグルドの息子であるセリスはアルヴィス皇帝を討ち果たす。にっくきアルヴィスを殺害して、そこで復讐は果たされたわ
けだ。リーフの時と同様、100%の成果だと言える。
 ところが、シグルドは現れるのだ。100%の成果を成し遂げたセリスに対し、何か言わなくてはならないことがあるのである。


Fotor_158293841568449.jpg

Fotor_158293842490595.jpg

 
 アルヴィス皇帝をやっつけたぞ!ざまあみろアルヴィス!と意気揚々、誇らしげなセリスに対し、シグルドは釘を刺していくのである。
 要するに何を言っているかと言えば、
 「おまえの100%は100%ではない」ということを伝えようとしているのである。
 聖性を付与された、正当化された殺害はある、しかしそれは殺害が正当化されたことと同じではない。同じことを意味してはいない。
 確かに憎い敵だったかも知れない。
 しかしそれを推し進めて「アルヴィスはクズだ、ファラ家はクズだ」とやれば新しい悲劇を生むのである。復讐が新たな復讐へ、復讐の連鎖へ、新しい悲劇へと繋がっていくのである。
 「父の仇!」として戦い相手を殺すことも、「最低な野郎どもだ!ぶっ殺せ!なぶり殺しにしろ!生かして帰すな!」でも結果は同じである、どちらを選ぶこともできる、しかしその差その結果は全く異なるものとなるということは意識されなくてはならないのだ。
 「人の哀しみを知れ」
 たったこれだけのセリフだが、シグルドはここで連鎖を意識させようとしている。
 殺すこと、殺害するということ。そのたった一事にどれだけの意味を持たせるか……つまり殺し手として持たせる意味合いがどれだけのものであるかによって未来は大きく変わるのだ。
 その意味で、殺すということを通して殺されるのは相手だけには決して留まらないのである。相手を殺すことが同時に自分を殺すことであり、未来を滅ぼすことであり、即ちすべてを滅ぼすことにも繋がりかねない。殺すということの意味はここまで重いものであるべきだし、意味性は付与されるべきである。
 「聖性があり、相手を好き勝手ぶっ殺す権利がある」ということが持つ意味合いというのはここまでの広がりがあるのである。


 ・このゲームは親世代子世代と続いていく珍しいゲームであるのだが。
 その中心的な要素として「連鎖」があるということをここでは指摘しておきたい。
 差別の連鎖、憎しみの連鎖、復讐の連鎖といったものがこの話の根底を成しており、シグルドはセリスにそちらへ目を向けさせようとしているのである。
 目先の勝ち負けではなく、大局的な視点から戦争そのものの根を絶たねばならないこと、そしてその危険性、戦争の火種を断つことの重要性を説いていると言える。







この記事へのコメント


パソコンランキング