戦国策46、蘇代が仲人(うそつき)の凄さを燕王に語る話
燕王は蘇代に言った。
「わしはうそつきのまくし立てるたわ言がひどく癪に(しゃくに)触るのだ」
蘇代はこれに答えて言った。
「私の故郷の周では、土地柄で仲人を卑しむ向きがあります。
両方を誉めるからでございます。
男の家へ行っては彼女は美人ですよと言い、女の家に行っては男は金持ちですよと言うのです。
しかしながら周の風習と致しまして、自分で直接妻をめとることは致しません。
処女は仲人なくては年老いて嫁がぬままとなりましょう。
また仲人なく自分をひけらかしても、結局は失敗に終わって売れ残ります。
事態が順調に進んで失敗することなく、買い手がついて話がまとまるには仲人に頼るのが一番良いのです。
物事は権謀によらなくては成功せず、勢いに乗じなくては成就しません。
依頼した者に、その場所にいながらにして結果をお届けできる者など、うそつきをおいて他にはございません」
王はこれを聞いて
「なるほど」と言った。
・燕王はうそつきが嫌いだと言っています。
まあ好きなやつなどどこにもいないでしょう。騙された、一杯食わされた。
そういう形によく落ち着く。
うそつきは自分のためになることを行い、相手の利益に損なうことをけっこうするものだと。そこが問題なわけです。
・蘇代はそこで仲人の話をします。
仲人の話は、その方向性とは真逆なわけですね。
確かにうそつきかもしれないが、周りにプラスを与えて自分は利益を取ろうとはしない。
それでも「あいつはうそつきだ」と言われかねない。周囲にプラスを与えてながら憎まれる。
蘇代と仲人をここで重ね合わせているのは間違いないでしょう。
つまり、自分はマイナスのためにうそをついているのではない、むしろ大きなプラスを与えうるほどの存在が自分なのだと説くわけです。
これによってうそつきは常に自分の保身を図るものだ、という図式そのものを崩しています。
・曹操は「わしは人の人柄は問わない、ただ能力ある者を愛する」
と言ったという話ですが。
この元は前漢の陳平(ちんぺい)にたどり着きます。
この男は頭が非常に切れる男でしたが素行の悪い男でした。
毎日勉強に励んでおり、生活費は兄が立てていました。
「弟は賢いからいつか大人物になる」
その信頼の下で、兄嫁を寝取っていたとかいう話もあったほどです。
この男が劉邦の下で大いに働き、天下統一にもその後の統治にも大きく貢献することになったわけです。
・行いが汚いか、綺麗であるかというのは確かに人の判断に大きな影響を与えます。
優秀であっても行いが汚いから採用しない例などたくさんあるでしょう。
凡庸であっても行いが綺麗である(汚いところがない)から採用される例も多々あります。
人を判断するうえで第一関門だといっていいものでしょう。
これは特に現代になるにしたがってその傾向が非常に強くなっているといえます。
でも例えばアメリカでは優秀なハッカーを雇って、対ハッカー戦略を担わせる例もあるという話です。
一方の日本ではなんだかんだ言っても基本は年功序列であり、社員を新卒で雇っては30年40年かけて一人前に育てていく。そうした風潮が根強くあります。これは、それが形骸化したとしても、それをやっている体は装うというほどに根強いものです。成果主義も長いことやっている奴は成果も出せるというので結局年功序列に呑まれています。それが最終的には腐敗や不正の温床となっている可能性を考えることすらできません。
・何が言いたいかって、こうした年功序列以外の線がある、それがどれだけのインパクトを持つだろうかって話です。
「温故知新」とは言いますが、こういう行いが綺麗である、行いが清い(不正をしないではなく、不正をまだしてないという文脈に置き換え得る)ってだけではなく、行いが清いか清くないかではなく、才あるものを愛するという曹操の方向性に立ち返ること、それがどれだけ有意義であるかと思うわけです(成果主義とは敢えて言いませんが)。
なんか蘇代の話でなくて曹操の話に始終して終わりましたが(笑)
まあいいか(笑)
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