檻の内と外という問題3






 こうして、平等でなくてはならない!差別はダメだ!競争はダメ、順位付けはダメだ!
 という方向性があったと。
 その方向性によって学校の競争は順位付けはダメでありみんな揃ってゴールインしなくてはならなくなったと書いた。そういう意味での平等圧とでもいうべきものがあった。平等でなくては絶対に許されない社会、その社会化がなされた。


 ・そうしてみると、最近のだっこ紐を外す事件の多発というのはこの平等性、そして平等圧という空気感、あるいは常識的なものを無視した行いから発している正義感も少なくないように思われる。
 差別はダメだ! から平等でなくてはダメだ! になり皆平等、皆均一という方向性がさらに広がっていくという3つの段階を経て、普通子どもなんて持てないのにコイツは持っている、許せない! というような怒りをもたらす源泉と化しているように思われた。
 少なくとも、それで見知らぬ人の赤ちゃんを殺害することがなぜ正当化されるのか、許されるのか、そしてなぜ自分が犯罪者となる危険性を犯してまでそんな行いをするかといえば、これには強い根拠があるように思われるのだ。それが即ち「平等でなくてはいけない!」というこの平等圧の変化形であり、あるいは進化形なんじゃないかと。こうして自らが殺人による犯罪者となることをも厭わない、それほど強い動機であり根拠となるその根拠ってのはこの平等感にあるのではないかと思われる。
 平等圧、その空気感を読まない平等打破というものはこうして徹底的にやっても許されるという流れがあるのではないだろうか。



 ・日本国内の衰退が騒がれて久しいが(まあその真逆もあるのだが)、かつての平等と今の平等は明らかに違う。皆が普通の生活を普通に営めるような普通から、皆苦労してがんばっているという普通に変化した。普通の段階が下がった、と考えるならばその下がった段階での平等性であり平等圧、平等感の絶対というのが重要だと思われる。
 皆死ぬ時は揃ってゴールイン、というような平等感があるし、その空気感を読まないことは許されない、そうしたものがあるんじゃないかなと思ってみたわけだ。




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