檻の内と外という問題
以前に檻の中でなす術もなくただぶっ殺されるだけのイノシシの母子を見て、凄まじくビビったもんだった。そのインパクトは何にも例えようがない。
この世界の隠された真理を見つけてしまった!というようなのが一番近いと思う。そう言いたいんだけど、それが一体何を意味してるのかを未だに言い表すことができていない。
ちなみにその映像はこちら(笑)
https://youtu.be/UTWFbDxUs6M
上げたのが2年前ってことは多分もう3年くらい前なんだろう。
・この無抵抗にされたイノシシを、なぶり殺しにするのをやめろー! と止めるつもりはないし、ここでは別にそういうことが言いたいわけではない。
ただ、たったこの短時間で起こった出来事、即ち公認された殺害……というのは恐らく凄まじく私の心に爪痕を残している。
こんなことが許されるのか、いや許されるなんてのは頭では分かっていたわけだけど、いざ目の前で起きてみると本当に言葉を失う。言葉がでない。でないんだけど、この出来事は間違いなく様々な形をとり、概念となり、我々の生活の隅々にまで影響を及ぼしている。
それが一体何なのか? をいまだに探っていると言っていい。
・暴力性の容認、てのはある。社会的に許された暴力。それは例えば人対人の体罰だったり、人から動物への殺害や殺戮だったりするわけだ。
でもこの区分というのも歴史的には曖昧で、人が人を虐殺したり殺戮することはあったし、まして動物を叩いてしつける、なんてことは山ほどあったろう。
ただその線引きというのは歴史に伴って推移してきたし、その現代のその線引きには現代なりの基準や正当性があるってわけだ。
じゃあ、檻という一線を通して見え隠れする暴力性は現代的なものだろうかといえば、私はかなり昔からあるものだと思う。
安全な場所に身を置きながら、敵を一方的に殺戮する。それは味方への被害を0に、敵への攻撃をムダなく100%にする、そうした相反する方向性をまとめて実現するというものなわけだ。効率よく物事を達成する、正々堂々とは真反対に位置するものになる。
これは中国でも、韓信の戦い方を見ているとなんかを見ているとよくわかる。弓や水を使うことで効果的に敵を倒す。自軍は被害0、なおかつ疲労も0だから次の行動にも速やかに動ける。
その一方で敵は疲労でヘトヘト、被害も甚大で容易に動くことすらできない。明らかに韓信はそうした味方と敵との間に圧倒的な差異を設けることを勝利だと思っていた節がある。それはつまり、いくら勝ちであっても味方は疲労でボロボロ、被害甚大でまともに動けないような勝ちは勝ちですらない、というような価値観でもあるわけだ。次に繋がらない勝ちの意味は、なくはないが薄い。大きな勝利とは、味方と敵との結果の大きさによって明確に測られる。
・でもそれがいいことは誰でも分かる。問題は現代のその線引きはじゃあどうなのか、ということだ。
恐らく先に上げたような兵法は効率化を目指していた、だとすれば正々堂々という価値観を置くことで二つの釣り合いを保っていたはずだ。効率よく殺戮する、その良心の痛みをどこに見出すのか。正々堂々としていない、だからこそ我々は正々堂々としなければならない場面もある、そんな価値観があったはずだ。それが実際には熊を30人とかで殺害し、実態としては明らかに効率化の方向性なんだけど、でもあいつ強いからこれで五分五分だよね、というようなとってつけたような価値観として正々堂々というのはあったはずだ。少なくとも我々の罪悪感というのはそうした形で解消されてきた。
そうした価値観が揺らぐということは、効率さえ良ければいい、という話になる。実態は歪む。正々堂々なんてオマケみたいなものはいらないとなる。
そうなると表れるのは効率化の方面のみ、ということになる。正々堂々とかいらない、殺していいんだからぶっ殺しちまえとなる。今までは効率化の反対には正々堂々という良心があった。今はそれがない。徹底的に躊躇なくぶっ殺せとなる。そもそもそうした良心の呵責なんてない方が効率はより良い。
それどころかゲームみたいにぶっ殺すことを楽しんでアミューズメントにした方が効率性はさらに良くなる。
現代の線引きに問題があるとすれば、そうした線引き、つまり正々堂々がなくなったことによる効率化の歯止めがなくなったために、我々の価値観自体が相当破壊されているんじゃないかということである。
ぶっ殺せ、に良心は捨てろ、がつきさらには楽しんで殺せになった。マイナスを減らし、さらには楽しんで殺す。
これが多分現代に見える一種の様相だと言えるのではないかと。
我々は何かをぶっ殺さないと生きていけない生き物である。
でもすみません、殺しました、命を頂きますってのと、マズいんだよもっといきのいいヤツ殺してこいや! では全然違うわけだ。
要するに効率よくぶっ殺してればそりゃベストなんだけど、そうして効率化が進んだ時に我々が果たして単なるぶっ殺しマシンから逃れられるのかという話でもある。
さらにいえば、単なるぶっ殺しマシンに堕して罪悪感すら抱かなくなった現代人である我々が、果たして日常生活に異常を来さずにいられるものだろうかって話だ。
眠くなったんで続きはまたに。
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