「与える者として」
例えばうちの婆さん、耳が非常に遠いし耳鳴りはするしで補聴器とか買ってるんだがそれが二つ三つあって使ってないわけだ。
そして普段からの口癖は「話をしなきゃならん」だったりする。
でも話って何かと言えば、言うことは話なわけだ。それは会話ではない。言うことが必要だし、必要なのは言うことだし、教えること。つまりは演説だって話になる。
だから口さえあれば話はできるって話になる。話をするのに耳なんかいらないんだと。必要ないんだって話だ。
これは人間社会のかなりの本質を衝いていて、話をすることは重要だし、聞かないことも同様に重要となったりする。
聞いたら負け、言ったら勝ち。言って教えたら勝ち、聞いてそれを受け入れることはプライドが許さない、とかなるわけだ。
だから普通なのは「話をすること」だし話を聞かないことである。異常なのは話をしないことだし、話を聞くことだったりする。まして、言われて言動を直したりしたらみっともないとやってたらそもそもが話にならなかったりする。
結局のところ役に立てば何でもいいと思うし、参考になればいいと思う。ヒントにさえなればなんだっていい。
でも教えてやった、聞かせてやった、そして効果は自分に跳ね返って、オレはそれだけの価値があることをした、価値があるのだと、それだけを求める状況というのをそもそも求めてないわけだ。
そこで求められてるのは人ではない。相手は自分のための鏡でしかないし、鏡として人を利用する。プライドのためなら相手がどうだとか知ったこっちゃない。
そういうのをオレはどうかなと思う。
互いに対等という前提を外して「話をする」なんてことが成り立つ訳がないし、そもそも成り立たせてはいけないものだと思うわけだ。それを示すのは礼儀とか思いやりとかだったりする。「相手のそんなん知ったこっちゃねえ」「話なんか口さえあれば成り立つよ」
で、話が成り立つ訳がない。話は前提からして崩壊しているのだ。
地動説は天動説をリクツで負かしたわけではない。天動説派が全員死んでようやく地動説が日の目を見たわけだ。それくらい頭の固さというのは直らない。そのバイアスの生き物が人間だと言えるし人の歴史とはそれとの戦いだったわけだ。
まあ結論だけど、「私の耳に聞こえる大きさで話さないお前が圧倒的に悪い」と一方的に言われたら、そりゃ普通怒るべ、と(笑)
会話してるのは対等なのに、話を聞くべきはお前だと言われたら。
この記事へのコメント