戦国策43、斉王が閔王→襄王→建となる話
斉の郊外に、孤喧(こけん)という者が住んでいた。
この者は筋の通った話をしたが、閔王(びんおう、湣王とも書く)はこの者を斬罪に処して、人民の信頼を失った。
また、陳挙(ちんきょ)という者がいた。
この者は斉の宗室(本家)に連なる血筋の者だったのだが、閔王はこの者も殺したために宗族の心が離れていった。
司馬穰苴(しばじょうしょ)という者がおり、この者は政治を担当していたのだが、閔王はこの者も殺し、大臣の心が離れていった。
そういうことがあり、燕は兵を挙げて昌国君である楽毅(がっき)を大将とし、斉を討たせた。
斉では向子(しょうし)に命じてこれを応戦させたが敗れ、向子は車一台で逃げた。
達子(たっし)は残りの兵をかき集めて、勢いを再び盛り上げて燕と戦った。
達子は兵卒に与える恩賞を要求したが、閔王はこれを断った。
そのため軍は敗れ、王は都から莒(きょ)へと逃れていった。
淖歯(とうし)は閔王を責めて言った。
「数百里四方に渡って血の雨が降り、たくさんの人の衣服を濡らしたことを、王は御存じでしょうか」
「知らぬ」
「土地に亀裂が生まれて地底の泉にまで及んだことは御存じでしょうか」
「知らぬ」
「宮殿のどこかで声をあげて泣いている者がいるらしく、行ってみると姿が見えず、立ち去るとまた声が聞こえてくるという話は御存じでしょうか」
「知らぬ」
「血の雨が降って人の衣を降らしたというのは、天の警告です。
地が亀裂を生じて地底の泉にまで及んでいるというのは、地の警告です。
宮殿の傍らで泣く者がいる、というのは人の警告です。
天地人が揃って警告しているというのに、王には自戒する気持ちがない。
どうして誅殺を免れましょうか」
淖歯はこうして閔王を殺害したのである。
斉の太子はこれを聞いて、衣服を脱ぎ捨て、とある太史(たいし)の家に逃げ込み、畑仕事をした。
その太史家の娘は、彼が貴人であることを見抜いてかいがいしく世話をした。
田単(でんたん)将軍は即墨(そくぼく)の城から生き残った兵を率いて騎劫(ききょう)将軍を欺き燕軍を破った。
そして斉の土地を回復することに成功し、太子を莒より呼び寄せ、王位に就けた。
こうして襄王(じょうおう)が即位したのであるが、王は太史家の娘を后として立て、こうして太子建(けん)が産まれたのである。
・この話が何を言おうとしているか。
パッと見には、あらましというか、歴史の記述にしか見えませんね。
閔王→襄王→太子建が王となり、この建が斉の最後の王となったようです。
始皇帝によって斉が滅ぼされて、中華統一という流れになったと。
歴史だけを見るならばそうなります。
・閔王についてはこちら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E7%8E%8B_(%E6%96%89)
閔王を殺した淖歯は、楚からきた将軍……と書いてありますが。
そもそも戦国策39の話ですが、燕は趙・魏・楚と四国同盟を、結んで斉に攻め込んだんだと。
http://www.kikikikikinta3.com/article/473247494.html?1580440868
そうなると楚から斉へと援軍……となると話がおかしいような気もしないではないですが。
まあ国としては同盟でも一部親戚つながりとかで援軍が送られていた可能性はあるかも知れませんね。
趙の危機に、魏から信陵君が義勇軍だけでも行こう、とやってて結局国軍を引き連れて行った、なんてくだりもありましたから。
戦国策37
http://www.kikikikikinta3.com/article/473223013.html?1580442654
・この本の解説には、この閔王はいかにも暗愚な王であるかのように書かれているが、実際には40年間も強国斉の王として君臨し、この話の4年前にはとうとう東帝を称するに至ったとあります。
燕も、昭王が楽毅を使って斉に復讐したとか、郭隗(かくかい)が隗より始めよといって賢者を募集していたとありますが。
燕の昭王についてはこちら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E7%8E%8B_(%E7%87%95)
昭王が王位に就く前に、父王は宰相に全て任せて国内は乱れに乱れていた。
これはいかんと皇太子が宰相と戦おうとして、さらに乱れたと。
で、「昭王(当時は公子の職といった)に味方しますよ」といったのが斉の閔王だそうです。
そして斉から兵士が入ってきて、燕を制圧してしまったということがあったようです。
皇太子はその後に王となってないということは殺されたかなんかしたのでしょう。
・このやり方はうまいのかどうなのか。
一気に燕を支配できたと考えるといかにも効果的だといえるでしょう。
でも昭王に大きな恨みを持たれた、それが斉の衰退へと繋がっているわけですね。
30年かけて、昭王は斉への復讐を果たした、ということになります。
そのくらい閔王は深い恨みを買ったのだと。
「東帝」だと自称できるほどに斉の勢いは凄まじいものだったのでしょうが、それは表面上であって。
その買った恨みが昭王の野望とあり、その野望を楽毅が助けて四か国同盟を実現し、斉を一気に痛めつけた。
これから考えられるのは、凄まじいプラスの裏には凄まじいマイナスがある(可能性がある)。燕なんか斉の支配下だったのに、斉を滅亡寸前まで追い込んだわけですから。ちょうど斉と燕とは真逆な方向性があるといえるでしょう。
栄光には衰退の芽が潜んでいるし(ちょうど斉が東帝から滅亡寸前まで至ったように)、衰退には栄光の芽が潜んでいるといえる(斉の属国だった燕は屈辱を味わったが、おかげで楽毅などの名将が集まることになった)。
・閔王は「天地人の警告を無視した」。
一方、その太子は咄嗟に機転を利かせて王族の服を捨てて畑仕事をして難を逃れたと。
閔王が殺された→次はオレも危ない→服を捨てるということにあるアンテナ。
そしてそれだけでなく農夫のまねをしようという機転。
そのことによって次代の后となる人と出会ったということ。
つまり、次代の襄王は、閔王と違って「天地人に見放されていない」とか「天地人の警告や救いをよく汲み取る人物だった」ということが言いたいのかもしれません。
・ついでに、この襄王の妻であり、太子である建の母ですが。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%BB%BA
この話から見受けられるように、非常に機転の利く、そして肝っ玉の据わった人物でもあったようです。
さらには畑仕事している男を見て、「この人はただものじゃない」と見抜く眼も持ち合わせていたと。
この当時となると、恐らく秦王は始皇帝である政だろうか。
それを踏まえてとなると、確かに燕によって一気に衰退させられた斉ですが。しかしそういう状況下でも、この人を襄王が妻に迎えることができた幸運はあった、ということが言いたいのかもしれません。
戦国策らしくないですが、「塞翁が馬」とか「人生何が得で何が損かわからん」てことがいいたいのかもしれませんね。
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