戦国策41、甘茂(かんぼう)が秦王と息壌(そくじょう)の誓いをする話






 秦の武王は甘茂(かんぼう)に言った。

 「私は馬車を韓の三川の地に行けるようにして、周の王室を見てみたいと思っている。

 もしそれができるのであれば、私は死後も名を残すことができるであろう」

 甘茂は言った。

 「私を魏に送ってください。同盟を結び、共に韓を討ちましょう」

 王は向寿(しょうじゅ)を甘茂の副使に付けてやった。



 甘茂は魏につくと、向寿に言った。

 「あなたは帰国してください。王に『魏は甘茂の申し出を受けました。しかし王は韓を攻めないでもらいたい』と伝えてください。これが成就しました折には、すべてをあなたの功績と致しましょう」

 向寿は帰ってその通りに王に伝えたので、王は甘茂を秦の息壌(そくじょう)の地まで出迎えに行った。



 甘茂が戻ってきたので、王が問うと甘茂は答えた。

 「韓の宜陽(ぎよう、洛陽のあたり)は大きい県です。富はここに蓄えられております。名は県でありながら、その実は郡なのであります。

 王が険阻な道を越えて行軍をした挙句にこれを落とすというのは至難の業です。



 ところで私の聞いたところでは、張儀は西は巴蜀の地を併合し、北は西河の向こうを取り、南は上庸を取りました。

 しかし天下の人々は張儀を褒めはせず、張儀を使った先王の方を賢君だと崇めました。

 また、魏の文侯は楽羊(がくよう)を大将として中山を攻めさせました。三年かかって落としましたが、楽羊は帰ってくるとその功績を高らかに語りました。

 文侯はこれを非難する文書を示したところ、

 『この度のことはこの私の功績ではなく、ご主君のお力の賜物です』

 と申したとのことです。



 今、私は他国の者でありながら臣下に加えて頂いております。

 しかし樗里疾と公孫衍(ちょりしつ、こうそんえん)の二人の重臣が韓に好意的に話を進めた場合、王は必ずやそちらに耳を傾けられるでしょう。

 こうして王は魏を欺くこととなり、私は韓の宰相である公仲移(こうちゅうし)の恨みを受けることとなるのです」



 昔、曾子(そうし、孔子の弟子)

 は費という場所に住んでおりました。費には曾子と同姓同名の者がおり、その者が人を殺したのです。

 ある人が曾子の母に『曾参(そうしん)が人殺しをしたぞ』と言いました。

 しかし『私の子は人殺しなど致しません』と平然と機織りを続けました。

 しばらくすると別の人がまた『曾参が人殺しをしたぞ』と告げましたが、それでも母は機織りを続けました。

 そしてまた別の人が『曾参が人殺しをしたぞ』と言いに来ますと、母は手にしていた杼(おさ)を投げ捨て、垣根を越えて走って行ってしまったのだそうです。

 曾子ほどの賢明さと、母の子に対する信頼とがありながらも三人がかりで言われれば、いかに慈母とてもじっとしておれなくなるのです。



 今、私の賢明さは曾子ほどではありませんし、王の私への信頼もこの母ほどではないでしょう。しかも私を疑う者など三人どころではありません。

 王が私のために、杼を投げ捨ててしまうことを恐れるのです」



 これを聞いて王は、

 「私は他に耳を傾けたりなどせん。神に掛けて誓おう」と言った。

 そこで甘茂は王と息壌(そくじょう)での誓いを結んだのである。




 甘茂は宜陽の攻略にかかったが、五か月かかっても攻略ができなかった。

 樗里疾と公孫衍(ちょりしつ、こうそんえん)は王の側で宜陽攻略を思いとどまらせようとした。

 王は二人の言葉を聞いて、甘茂を呼び戻した。

 甘茂は答えた。

 「息壌はまだ存在しておりますぞ」

 王は「そうであった」と言い、できる限りの兵を与えて再度甘茂に攻めさせた。

 こうして宜陽は落ちたのである。





 今回いろいろ調べてます。


 ・樗里疾(ちょりしつ)はこちら


 甘茂を推薦した人物ってことですね。それだけ見るといかにも甘茂の恩人のようですが、秦には推薦者が罪を犯すと連座制で推薦者も一緒に処罰されるという制度があります。

 ということは甘茂が宜陽攻略に失敗したなら処罰されかねない。

 となると、ここでは先手を打って「甘茂には辞めさせた方がいいんじゃない?」と言って責任逃れしたいのだなと(笑)



 ・公孫衍(こうそんえん)ないので秦の武王


 犀首(さいしゅ)とも言われますが、これは秦の官名のようです。犀首といえば公孫衍と。

 「張儀、蘇秦、公孫衍」と並べ立てられるほどの人物であり、当時有名な縦横家の一人のようです。

 公孫衍といえば、あー口がうまいヤツで厄介者扱いされてるヤツなんだなと(笑)



 ・韓の宰相の公仲移(こうちゅうし)もないのでとりあえずこちら




 ・曾子(そうし、曾参そうしん)はこちら


 →「曾参人を殺す」


 =「曾母投杼」(そうぼとうちょ)とも。こうした諺になったと。


 三人言えばこの母ですら信じる、誰だって信じるようになるという話ですね。



 ・機織りに使う杼(おさ)


 まあこういうのがあって、それを放り投げたと。

 当時機織りするのに使う貴重品で、それが壊れたら大変、でも賢母がそれを投げるほどのショックがあった……という意味ももしかしたらちょっとあるのかもしれません。






 ・さて。

 周は分裂し滅亡して韓・魏・趙になりました。

 韓の地はその中心の方にあると思っていいでしょうね。

 宜陽=洛陽であり、周の中心地帯だった。

 それが災いして、四方を強国に挟まれ常に圧迫されるという状況になっております。



 ・甘茂の中では、早い段階から韓の宜陽を落とすこともできる、それだけの力が秦にはあるし、魏と同盟を結ぶこともできるといった明確な見通しが立っているように思います。

 ただし攻略に時間がかかるということも分かっている。

 決して攻略自体は不可能ではないが、その際の問題は敵ではなく味方の方にあると踏んでいる。

 よそ者の自分がいくら頑張ったところで、樗里疾(ちょりしつ)は不安から攻略やめましょうと言い出しかねないし、口のうまい公孫衍(こうそんえん)はそれを王に吹き込むことに成功するに違いない。

 そして事実ピッタリそうなることを見通してもいるわけです。



 そして曾母投杼の話をすると。

 あの曾子の賢母でさえ不安になった。

 ましてよそ者の自分と、賢母ほどではない王です。

 こうなると、恐らく途中でやめることになる可能性が高いはずだと言います。

 そうなると魏からの信頼は損ねることになるし、韓からは恨まれることになる。

 そして念願の宜陽の地は手に入らない。全くいいことがないわけです。





 甘茂がいいたいことは初志貫徹の大切さであり、少なくとも攻略さえできれば最悪の事態は避けられると言っています。

 魏からの信頼を損ねることもなく、韓からただ恨まれることもない、そして宜陽の地は手に入る。

 途中でやめるくらいなら最初からしないほうがいいし、どうせやるのであれば徹底的にやるべきだ。それが甘茂の主張です。



 ・で、時が流れ甘茂の言った通りになった時に

 「息壌の誓いはもう忘れたんですか!」

 と言うわけです。

 事実揺れ動いてしまった王は、「いやいや、忘れてない」

 と言い、攻略は続行されるわけです。

 甘茂は最初からこの時点での手を見事に打っていた。

 予測をし、誓いもし、それでも忘れられるだろうことも予測し、そして当てていると。



 ・つまり魏との同盟よりも宜陽の攻略よりも、はるかに難易度が高いのが攻略を続けることだし、さらに厄介なのは王とその周りの側近の問題だと思っていたし、そのための手を打っている。

 そしてそれを最初から見通している、というのがポイントでしょうね。

 王と誓いまでして、そこまでの伏線を見事に作っている。

 予測したことを実現化すること、これが決して低くないレベルで実現化されている。甘茂の非凡さを伝えているといえる話でしょう。



 ・ところで甘茂についてはこちら


 三国時代の呉将、甘寧(かんねい)の先祖のようです。

 甘寧の子孫も文官として有名になったようですし、甘茂も将軍としても有名かもしれませんが、それ以上に縦横家などを上回るほどの配慮、政治的なやり取りが巧みであり見事だなと思わされるわけですが。

 甘寧は確か海賊もしてたんじゃなかったかな。先頭に立って敵陣に突っ込むみたいな役回りをしていかにも武に優れる武将という感じです。

 三国志だけ見てると甘寧=あんな感じとなりますが、甘一族を見ていくとむしろ甘寧一人だけ毛色が違っているというのが意外な印象ですね(笑)

 清代の甘熙はこの甘寧の子孫として伝わると。

 例えば曹操の一族も、陸遜(りくそん)の一族も本人はともかくその一族の末路は華々しくはなく、皆殺しなどに遭っており歴史の無情さを痛感しますが。その後100年ももってないんじゃないかな。

 甘一族はこうして甘寧の1500年後も文官として生きている、というのが妙に不思議な実感を感じさせたりもしますね。

 歴史のロマンでしょうかね(笑)

 誰か甘一族を取り上げた壮大なドラマ作ってくれませんかね(笑)

 多分これおもしろいと思うんだけどなあ。







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