戦国策40、白起が趙をどうしても攻めない話 改
※今回もすさまじく長いです。
①
秦の昭王は、民をしっかりと休ませ武器の整備も終わったところであり、再び趙を討とうと思った。
ところが武安君である白起はいけませんと言う。
昭王
「先年、我が国の国力が底を尽き民が飢えている最中に将軍は人民のことを考えることもなく軍の兵糧を増やして趙を滅ぼすことを提案した。
今民はしっかり休まって兵士も養成され、食料も備蓄し軍に与える給料は以前の倍額に増やした。
それにも関わらず将軍はいけないというが、その理由を聞かせてもらおう」
白起
「長平の戦いでは秦は大勝し、趙は大敗しました。
秦の人々は歓喜し、趙の人々は畏怖しました。
秦の民で戦死したものは手厚く葬られ、負傷した者は手厚い看護を受け、労役した者は歓迎され、飲み物や食べ物も贈られて財産を蓄えに蓄えております。
一方、趙の民は戦死者は骨も拾えず、負傷者は手当も受けられず、涙を流して悲しんでおります。
力を合わせ憂いを共にし、田畑の耕作に力を入れており、自分たちの力で財産を産み出しております。
今、王が軍を出すとしますと兵は以前の倍にもなるかもしれませんが、趙の守備は十倍にもなります。
趙は長平の戦い以降、君臣共に憂慮して早朝から日暮れまで働き、辞を低くし丁重に四方の国々に出かけていっております。
燕・魏と関係を保ち、斉・楚と友好を築き、思慮を積み重ね心を合わせて、秦に備えをしております。
国内は充実し、外交は成功しています。
今趙を討ってはならないのです」
しかし王は
「もう出動を命じてしまった」と言い、王陵(おうりょう)に命じて趙を討たせた。
ところが戦線は思わしくなく、王陵は部隊を失ってしまった。
王は武安君に出兵させようとしたが、武安君は病気と称して行かなかった。
②
そこで王は宰相の范雎(はんしょ)に命じて武安君に会わせ、武安君をなじらせた。
「楚は土地五千里四方、戦士は百万にも及ぶというのに、将軍はわずか数万の兵で楚に攻め込み、東の方まで深々と侵攻された。
楚の人々は震えあがって東に移り、西に向かおうとはしなくなった。
また韓と魏とが協同して軍を起こしたとき、将軍の兵はその半数にも満たなかったにも関わらず伊闕(いけつ)で戦っておおいに両軍を撃破され首を切ること24万を数えた。
韓と魏はそれ以来秦の東の盾と称している。これこそまさに将軍の功績と言ってもよく、これを天下に誰一人として聞いてない者などいません。
今、趙の戦死者数は長平の戦いで趙全体の7~8割にも及び、国力は弱くなっている。
一方我が国の兵力は趙に数倍している。
どうか将軍に軍を率いてもらって、この機に趙を滅ぼしたい。
かつて将軍は寡兵で大軍を破り、勝利を収めること神の如しであった。
まして強兵でもって弱兵を破ることなどはいうまでもないことであろう」
しかし武安君は言った。
「当時の楚では楚王が国力が強大なことに恃み、政治はおろそかになっていました。
群臣は相手の功績をねたみ、おべっか者が政治を動かし、良臣は排斥され、民の心は離れて城の補修すらなされていませんでした。
良臣がいないどころか守備すらなされていないものですから、軍を率いて深く進攻し、多くの城を通過し、橋を壊し船を焼き払い住民を我がものとし田畑で略奪し兵糧を補給することもできたのです。
また、当時の秦の兵卒は軍を家庭と思い、将帥を父母と思い、褒美を約束するまでもなく信じあっており、心を一つにして力を合わせ、必死の覚悟で戦い、敵に後ろを見せる者などおりませんでした。
これに比べて楚の民は自分の土地で戦うことになり、自分の家が気がかりで心を散らせており、闘志を燃やす者などおりません。そういうわけで戦功を立てることができたのです。
伊闕の戦いの折は韓は孤立し魏を頼みにし、自分から先に自国の兵を動かそうとはしませんでした。
また魏は韓の兵士を頼みとし、韓兵を先頭にたてようとしておりました。
二国が競って自分の都合を図りましたので。力が一つとなりませんでした。
そこで私は見せかけの軍を韓の陣に対峙させておき、精鋭をもって魏の不意を襲いました。
魏が敗走したからには韓の軍は自滅します。勝ちに乗じて逃げる者を追撃しました。
そういうわけで戦功を立てることができたのです。
いずれもみな敵の形勢について考えた末の計算ずくの勝利であり、自然の理に則ったものです。どうして神などでありましょうか。
秦は趙軍を長平に破った時に、その機を逸せず趙が震えている時に一気に滅ぼすべきでしたのにそれをせず、秦を恐れたとして許しました。
そうして趙は農事に励んで蓄えを増し、孤児を養い民を増やし、兵器や鎧を修繕して武力を増し、城を増築して防備を固める時間を与えたのです。
趙では君主は臣下に謙虚であり、臣下は必死で戦う兵士に謙虚であります。
平原君ほどの名家の者であっても、妻妾を部隊に送って仕事をさせています。臣民が心を一つにし、上下力を合わせる様は越王句践(こうせん)が会稽(かいけい)で苦しみを耐え忍んだ故事さながらであります。
こういう時期に出陣しても、趙は必ず固い守備を取ります。
戦いを仕掛けても決して出てはこないでしょう。
国都を包囲したところで決して落とせません。
略奪をしたところで何も手に入りません。
秦軍が出陣して戦功がなかったならば、外から援軍が向けられてくることは確実です。
私には趙を討つことの害ばかりが見えて、利は一向に見出せません。
それに病気でありまして、まだ行くことはできません」
応侯(おうこう、范雎のこと)はこれを聞いて恥ずかしくなっていとまを告げ、武安君の言ったとおりに王に告げた。
王はこれを聞いて、
「白起がいなければ私には趙が滅ぼせないとでもいうのか」
と言い、軍を編成し、王齕(おうこつ)を王陵に変えて将軍とし、趙に攻め込んだ。
趙の都邯鄲(かんたん)を囲むこと8~9ヵ月に及び、死傷者を多く出したが落ちなかったばかりか、趙軍は軽装の精鋭によって秦軍の背後を
襲った。
③
武安君は言った。
「私の言ったことを受け入れられなかったが、王の今の心境はどんなものだろうか」
王はこれを聞いて怒り、武安君に会いに来てむりやり起こして、
「将軍は病気と言っていたが、私のため、病床に臥せったままでも将となってもらおう。
戦功が上がることが私の願いであり、その暁には手厚い恩賞を授けよう。もしこれでも行かないというならば、将軍を恨もう」
武安君は言った。
「私は今、出陣すれば戦功はなくとも、王の命に従わないという罪を免れることができます。
また、出陣しなくて敗戦の罪を犯さずに済んだとしても、王の命に背くために罰を受けることを免れないことを存じております。
私がお願いしたいことは、王がこの愚臣の意見をよくご覧になり、趙のことは捨て置いて民を養い、諸侯の動静をよく見渡されることです。
萎縮している者を慈しみ、驕慢な者は討ち、無道の者は滅ぼして諸侯に号令されれば、天下は我が物にできるのです。
何も趙にばかりこだわる必要はないのです。
このようになさるのが、『一人の臣に膝を屈して天下の諸侯に勝つ』ことなのです。
しかし王がこの愚計を明察してくださらず、どうしても趙にまた一泡吹かせたく、そしてこの臣に罪を与えたく思われるのならば、これは『一人の臣に勝ち天下の諸侯に膝を屈する』ことに他なりません。
一人の臣下に勝つことの威厳の重さと、天下の諸侯に勝つ威厳とではどちらが勝りましょうか。
私が聞くところによりますと、
『明主は国を愛し、忠臣はその名を愛する』と申します。
一度敗れた国は二度と元の姿には戻りません。
戦死した兵卒は二度と生き返らせることはできません。
臣は重い罪を受け死にましても、敗軍の将となることは耐えられません。
どうか王の明察をお願い申し上げます」
これを聞いて、王は答えないまま立ち去った。
・この後、白起には自殺するよう命令が出ます。
・長いので①~③に分けました。
どこを見ても白起が明確で具体的な理由を説明することに驚きます。
范雎が「将軍の用兵術は神の如しだ」というような話をしてますが、実際当時の白起がに対するイメージはまさにこうした神懸かりなイメージでしょうし、マンガとかでも白起のイメージはそんな感じです。白起が出てくれば必ず勝つとか。「泣く子も黙る張遼(ちょうりょう)」とかいう言葉が三国時代にはできますが、この時代はまさに「泣く子も黙る白起」でしょうし、そんなに泣いてたら白起が来るぞ!と言ったら子供が泣き止むみたいなのがあったように思われます。
・でもこうした描写を見ていくと白起はたまたまとか偶然とか、神がかりなイメージとはかなりかけ離れている様子が見て取れます。はたから見れば白起は鬼神に見えても、白起自身の中には明確で具体的な勝てる理由がある。
で勝てる戦いはするし、勝てない戦いはしない。そうした基準があるために負けないし、勝つ時には大勝する。というわけですね。
「名将」というといかにもしっくりきそうですが、でも結果がすごいというよりは、その見極めが非常に見事だなという印象ですね。自分の結果をきちんと説明できる。
神懸かりを具体的に言葉で表せるというのが。
・白起の行いについてはこちら
http://xn--fiqw0l9zcpx0bzfc81i.com/%E7%99%BD-%E8%B5%B7%EF%BC%9A%E3%83%8F%E3%82%AF-%E3%82%AD
向かうところ敵なしで勝ちまくってますね。確かにこれはすごい。
①については白起が戦が勝てる理由を自分と相手とを比較して、相手の方を子細に説明できているのがすごいですね。きちんと偵察し情報を探っているのでしょう。
で、こちらがいくら戦力が充実したからといって勝てるわけではないと。勝てる理由はこちらだけにあるのではない。
相手が今どうなのかということに非常に強くかかっている。
そうしてみると、
1こちらが充実、敵も充実→勝てない
2こちらが充実、敵はダメ→勝てる
3こちらがダメ、敵は充実→勝てない
4こちらも敵もダメ→勝てない
という図式のようなものを漠然とかはっきりとか頭の中に描いているなというのがわかります。
王はこっちが充実しているから勝てるはずだと主張するわけですが、白起は状況を1だと判断している。
すなわち勝てないと踏んでいる。
そしてその通りに事態は推移するわけです。
②范雎が「将軍はすごいから勝てるよ」という話をしてますが。
白起の中では自分が神懸かり的なほど用兵にたけているから勝てるというものではなく、状況をきちんと見極めて勝てる戦いをしているから勝てるのだと説明しています。
そして今の趙は団結しており、国力は衰退しているかもしれないが、戦う相手としては非常に手ごわいとみています。
范雎の言う「白起は神だ」的なイメージとは全くかけ離れたものだと言えるでしょう。
白起は具体的であり、自分の得た情報に基づいており、そして判断に基づいている。
范雎は概念的で漠然としており、白起は神だ、名将だというイメージで話を進めている。
(余談ですが、この范雎という人も決してだからといってアホだというわけではないです。むしろ賢人だし逸話をたくさん持った人です。
范雎についてはこちら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E9%9B%8E
最近の研究では、秦では推薦した人が罪を起こした場合連座制で罪に処される慣習があり、これによって范雎も処刑されたという見方が主流になっているようですね。これは驚き)
③ですが、この戦国策そのものがたとえ話の多い張儀や蘇秦を結構取り上げていますが。
ここにある通り白起もたとえ話がうまいし、言いたいことが明確に伝わってくる、従ってそうした列に連ねられているというのが驚きです。
名将であり、決して武一辺倒というわけではない。
ただし、それが処世術に長けていることとイコールかどうかはまた別なのでしょうが。
・一応白起は趙に攻め込んで敗戦の罪を犯すこともできたようです。
つまり、王命に従って趙に攻め込み敗戦の罪を受けるか。
それとも王命に逆らって攻め込むことを拒み王命に逆らった罪を犯すか、そうした岐路があった。そこで白起は王命に逆らって自害する方を選んで死んだのだということが読み取れます。
「神懸かりな白起」のイメージとは真逆で、生き方は実直というかクソ真面目というか。あるいは名誉を重んじたのかも知れませんが。
生きて敗戦の将となることよりも死を選んだのだなということがよくわかります。
・結局、この秦王は白起に死を命じます。
伝わる言葉を選んでないところに白起のうまくないところを見るか、実直な姿勢を見るか。
少なくとも張儀や蘇秦とは違った言葉の使い方がなされていること、それをここで取り上げていることは確かでしょう。
・ここで白起に自害を命じて秦が傾く、ということはないほど秦の国力は増しているのでしょうが。
それにしても功績の大きい白起に死を命じたということ、それによって各国が安堵したか、あるいは大喜びしたか。
少なくない影響があったろうことは間違いないでしょう。
・ところで王陵と王齕が趙を攻めた、という話ですが。
この時趙にいたのが後に始皇帝となる政です。
秦の人質として趙に送られていながら、平気で趙を攻めこむ秦。
それで趙に命を狙われていたという経緯。
ここは直接は関係ないにしても興味深い点かなと思います。
始皇帝についてはこちら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
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