戦国策39、楽毅の燕王への手紙 改
※今回超長いです。
序
昌国君(しょうこくくん)である楽毅(がっき)は燕の昭王のために五国の軍を合同して斉を攻め、七十余城を降し、そのことごとくを燕に従属させた。ただ聊・即墨・莒(りょう、そくぼく、きょ)の三城だけは落ちなかった。そのうちに昭王が死んで恵王が即位すると斉の間者の言葉を真に受けて楽毅を疑い、騎劫(ききょう)将軍を代わりに立てた。
楽毅は趙に出奔し、趙は楽毅を望諸君(ぼうしょくん)に封じた。斉の田単将軍は騎劫を欺き燕軍を破り、七十余城を取り返した。
①
燕の恵王は後悔し、特に楽毅が恨みに思ってこの機に乗じて燕に攻めてくるのではないかと恐れた。そこで使者を送り楽毅を責めると共に謝罪をしようとしてこう言った。
「燕の先王である昭王は国を挙げて将軍に全権を委ねられ、将軍は燕のために斉を破り、王の恨みを晴らされた。天下の諸侯の中でこれに驚かない者などはなかった。
私は一日として将軍の功労を忘れることなどはなかった。たまたま先王がお亡くなりになり、私が新たに即位したところ左右の者が私を誤らせたのだ。
私が将軍を騎劫と交代させたのは、将軍が国外で長いこと風雨にさらされていたためであり、将軍にしばらく休息していただこうと思ってのことである。ところが将軍はこれを聞き間違えて、私との関係が気まずくなったものと考えて趙に身を寄せてしまわれた。
将軍が自らの保身を図るのはけっこうだが、それでは先王の将軍に対する厚遇には、どのようにして報いられるのか」
②
望諸君である楽毅は、燕王に返書をしたため次のように言った。
「私は不才なので、先王の志を抱いて側近の方々にも合わせていくというようなことができませんでした。これは処罰されるほどの罪に当たりますので、先王の御意向を傷つけ、さらには王の徳をも傷つけかねないことを恐れましたからこそ、趙に出奔致しました。これは己の未熟さゆえに受けた罪であると甘んじて受けようと思い、言い訳をしようとは思いませんでした。
今、王はこの私の罪を責めておいでです。
私は、王の側の方々にはなぜ先王が私を慈しんでくださったかをお察しいただけず、私がどのような気持ちで先王に仕えたかを分かっていただけないのではないかと思いますので、失礼ながら書面をもってお答え致します。
私が聞いたところでは、
『賢明な君主は、俸禄を近しい者に与えたりはせず、功労の多い者に授ける。
官職を愛する者に与えたりはせず、能力のある者に与える』とのことです。
臣下の能力を明察して官位を授けるというのが功業をなす王であり、君主の能力を分かったうえで君臣の交わりを結ぶのが名声を立てる士なのであります。
私から見た先王は他の君主にはない心意気がおありでした。そうであるからこそ魏王に使者として立ててもらって先王に接見する機会を得たのです。
すると先王は間違って私を抜擢され、君臣の上の地位に据えられ、一族の方にもご相談することなく亜卿(あけい)の地位に取り立ててくださいました。これが間違いだろうと幸運によるものだろうと、そつなく勤めていこうと思いましたので辞退もせずに命を受けたのです。
先王はこう言っておられました。
『私は斉に恨みと怒りとを抱いている。燕の弱さなど忘れて、ただ斉を討つことばかりを考えている』と。
それで私は答えました。
『斉にはかつて覇を唱えた国としての遺教と、戦に勝ってきた遺業とがあります。武器に熟達し、戦闘に習熟しております。
王がもしも斉を攻めたいとお望みであれば、天下の諸侯を結集してお攻めになるべきです。そうするためにはまず、趙と同盟する以外の近道がございません。
淮北(わいほく)と宋の土地は、楚と魏とが共に狙っている土地です。
趙が同盟に承諾すれば、楚・魏と同盟を結び、四国で攻めれば斉を討ち破ることができるでしょう』
先王は『なるほど』と仰せになりました。
そこで私はじきじきにご命令を受け、趙へ使いに行きました。
帰国しますと命を受け、兵を起こし、諸侯に従って斉を攻めました。黄河以北の地が先王に従いました。私はその兵を集めました。
軍は命を受けて斉を討ち、軽装の一軍が斉の都を強襲しました。斉王は逃亡し、莒(きょ)に逃げ込みました。斉の武具や宝物は燕へと運びました。
その功業について言えば、いまだかつて先王に及ぶ者はありません。先王はこの結果に満足され、私を土地を割いて封ぜられ、小国の諸侯にも匹敵するほどの厚遇をしていただきました。
私は不才の身ですので、この時も命令に従ってさえいればおとがめなく過ごせるだろうと思い、命を受けても辞退はしませんでした。
③
私は、
『賢明な君主は功業が成っても廃れることがないから歴史に名を残す。
先見の明がある士は名声が成った後に敗れることがないから後世に名が残る』
と聞いております。
先王が恨みを晴らし、斉という強国を討伐し、八百年に渡って蓄えた富を手に入れ、群臣を捨てる日が来たとしても、その違令や遺教は臣下の法令順守や嫡子の態度に表れて、さらには広く人民にまでその影響が出るなど後世にとってのよい教訓となることでしょう。
またこうも聞いております。
『事をうまく起こす者が、うまく成功させるとは限らない。
うまく始める者がうまく終わらせるとは限らない』
昔、伍子胥は呉王である闔閭(こうりょ)に受け入れられました。それによって呉王は遠い地にまで領土を拡大することができました。
しかしその子の夫差(ふさ)は伍子胥の言葉を聞き入れず、伍子胥に自殺を迫り、そのしかばねを馬の革袋にいれて長江に流しました。呉王夫差は先王が用いた策を用いることで功業が立てられると悟らなかったために、伍子胥を長江に沈めても悔いることがなかったのです。
また伍子胥は、主君が先王と同じ器量であると見抜けなかったために長江に投げ入れられて今も霊魂をさまよわせているのであります。
罪過から逃れて功績を全うすることで、先王の事跡を明らかにすることがこの私にとっての最上であると思っております。
私が陥れられ辱められることは、先王の名誉を失墜させるものであり、私はこれを恐れております。
燕を去り、趙に行くしかなくなり、不測の罪を恐れるような者が燕の疲弊に乗じて趙の利益を図るなど、先王の恩を受けた身でありながらそのような行動は決して致しません。
④
私はこうも聞いております。
『いにしえの君子は絶交した後も悪口は言わない。
忠臣は国を去った後、その名の潔白を言い立てない』
私は不才ながらも、教えを君子に仰ぐことができました。
王の側近の方々が近しい者の言葉に親しまれて、疎遠の者の行いについてはよく見聞きしておられないことを恐れますので、敢えて書簡によってお返事を致します。
王におかれましてはご留意くださりますよう」
・あまりにも長いので序とあと4つに分けました。
序は楽毅が亡命するまでの下りの説明なので深い説明はいらないかなと。
①燕の新しい王である恵王が、楽毅に手紙を出すわけですが。
二人はもともと仲が良かったわけではないようです。恵王が太子だった頃からあまり仲は良くはなかったという記述はいろいろな場所に書いてあります。
追い詰められた斉の田単はこれを利用します。
「楽毅があれだけの勢いで攻め込んでおきながら残りを落とさないのは、どうも野心があるらしいぞ」と偽情報を流します。これがうまくいって将軍交代の流れとなり、楽毅は素晴らしい功績を褒められるどころか、むしろ謀反を企てた危険な人物という疑いで処刑される流れとなります。
なので、亡命を余儀なくされるというわけですね。
②ところでこの先王というのが昭王というのですが、斉に騙し打ちにされたことがあり、前々から恨みや怒りを持っているわけです。で楽毅の前に郭隗(かくかい)という人物に相談してます。
するとこの人が「隗より始めよ」という言葉を言いました。これことわざになってます。
隗より始めよ
https://kotobank.jp/word/%E9%9A%97%E3%82%88%E3%82%8A%E5%A7%8B%E3%82%81%E3%82%88-456629
賢者を求めるならば、凡庸なこの私を重く用いることから始めよということですね。
そうすれば私以上の人材が集まってくる。
それをしたいのならば、手近にある自分を尊重することから始めなさいというものですね。
その結果各地から私は郭隗以上だ、……とはならないかもしれませんが、賢者を燕では厚遇しているらしいと話が伝わっていき、楽毅もそのうちの一人として燕に行くことになるわけですね。
そういう状況をもたらした郭隗という人物にもなかなか侮れないものがあると思いますが、そうした意見を素直に聞けるという時点で昭王は非凡だということができるでしょう。
孟嘗君にしろ、劉邦にしろ、古代中国の偉人は(良くも悪くも)人の言葉を素直に聞けるという点が共通しているように思います。賢者の意見、自分とは違った視点を持った者の意見を素直に聞ける。まあ孟嘗君も劉邦も、自分で意見の中身を判断する、という能力にはやや欠けているような気もしないでもないですが。
でも昭王は「斉をやっつけたい」「一泡ふかせてやりたい」という明確な意志を持っています。自分がある人は意固地になりがちなものだと思いますが、それでも「斉をやっつけることができるのならなんでもする」という決して硬いだけではない、柔軟さも持ち合わせている。そして一度楽毅を認めたら全権を委ねて任せてしまう。
謀反を起こしたらどうしようとか、それに備えて権利を少し与えないでおくか、というようなこともしない。ある意味では無防備すぎるかもしれませんが、見方によっては稀にみる大器量の持ち主だといえるでしょう。
そうした人物に、自分はただ協力しただけだというわけです。斉を攻めたいというから四国で同盟して攻めるよう準備を整えただけだというわけです。
・『賢明な君主は、俸禄を近しい者に与えたりはせず、功労の多い者に授ける。
官職を愛する者に与えたりはせず、能力のある者に与える』
これは一種の皮肉だといえるでしょう。
斉をかなり痛めつけて首都も陥落させた、宝物もすべて燕に送ったわけです。
ところが燕の方では楽毅に謀反の兆しありと噂をしており、それを恵王まで信じている。さらには将軍交代をさせて楽毅を処刑する準備まで整えているわけです。
全く功労に報いるどころの話ではない。
「狡兎死して走狗烹らる」と言いますが、まさに功績を立てたからこそ楽毅は殺されねばならなかったし、ほかの臣下からみたら華々しい功績を残した楽毅は疎ましい存在だったに違いありません。
したがって言いたいことはこうなるでしょう。
『愚鈍な君主は功績のある臣下を疑って殺そうとし、近しい者にその分を与える。
能力に応じて報いたりはせず、官職を愛する者の言葉に耳を傾ける』
楽毅はこれを違う形で、つまりは逆に表現してみせたということです。
③
『賢明な君主は功業が成っても廃れることがないから歴史に名を残す。
先見の明がある士は名声が成った後に敗れることがないから後世に名が残る』
これも皮肉でしょう。
愚鈍な君主はせっかく大勝してながら将を排斥し、逆に滅亡の危機にまで追い詰められてしまい歴史に名を残す。
私はそれに比べれば多少は先見の明があるから、処刑されかけるけどうまく逃げて処刑を免れて後世に名を残す。
なぜこれが可能かと言えば、伍子胥の故事を知っていたためです。
伍子胥が闔閭の下で存分に働いた後、夫差の下で死ねと言われて死に、遺体は長江に投げ捨てられた。
これと楽毅が昭王の下では働けたが恵王の下では処刑されそうになったこととを明確に比較してなぞらえてあります。
そして恵王が功績をなした者を平気で殺せる夫差と等しいと皮肉ってもいます。
④
楽毅が逃げた後の燕では口々に楽毅を罵ることができたでしょう。
やはり裏切る気だったのだ、やましいことがないのなら帰ってきていたはずだ。
そして恵王もそれに賛同していたでしょう。
死人に口なしとは言いますが、逃げた楽毅には何も言えません。
恐らく宮中では極悪人扱いだったに違いありません。
『いにしえの君子は絶交した後も悪口は言わない。
忠臣は国を去った後、その名の潔白を言い立てない』
という言葉を聞いているから私は燕のことを悪く言いません、と言ってますが燕の宮中と自分とをここで対比させています。
・諸葛亮孔明は楽毅を理想的な人物の一人として尊敬していたといいます。
それはこの文章が古今稀に見る名文であり、それについていろいろ思うことがあったことと無縁ではないでしょう。
諸葛亮も「出師の表(すいしのひょう)」という文章を皇帝である劉禅(りゅうぜん)に対して書いており、その北伐に秘めた悲壮な決意は当時読んで泣かない者がいなかった、と言います。
・ただ、これは戦国策です。
感動や誠意、そうしたものは効果、つまり政治的な色合いと全く無縁ではないでしょう。
諸葛亮がこの文章を読んで受けた印象は単純な「感動」を意味するものではなくて、恐らくその感動を通り抜けた先にある効果、それに対する印象というのが非常に大きかったのではないかと思います。
そもそも楽毅としては趙を動かして斉と共に燕を攻めることだってできたはずです。
でもそうしなかった。そしてそれに怯える恵王に書簡を出している。
後世にまで伝わる名文とそれの感動、それは単に燕を攻め滅ぼすことよりもはるかに重大な影響があった、と諸葛亮は感じたのではないでしょうか。
そして恐らく諸葛亮自身も、出師の表と北伐とは別に楽毅になぞらえた、楽毅から学んだものを重要視して北伐を行っていたのではないでしょうか。
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