戦国策32、范雎が秦王に遠交近攻を説く話






 范雎(はんしょ)は秦王に言った。
 「大王の国は広大にして堅牢であります。
 戦車千乗、強者100万。秦兵の勇猛さと車騎の多さを持って諸侯に立ち向かわれるのでしたら、これはまさに名犬の韓盧(かんろ)によって蹇跛(けんぱ)の兎を追うが如しであります。覇王の功業を成就されますでしょう。
 ところがいま、大王は函谷関(かんこくかん)を閉じたままで山東の地を狙っておられません。これは穰公(じょうこう)が国のことを考えるのに誠意がなく、大王の計略にも誤りがあるからだと言えるかと存じます」

 秦王
 「その誤りについてぜひお聞きしたいのだが」
 范雎
 「王が韓と魏とを従えて斉を攻めようとしておりますのは、決して得策とは申せません。兵が少なければ斉に痛手を負わせられませんし、多く出せば秦の国力が損なわれます。
 今、王は秦の兵をできるだけ少なく出して、韓と魏とに兵力を多数出させようとしているように見受けられますが、それは不義というものです。そして韓と魏とが役に立たぬと思いながらその国を超えて攻めるというのは、どうかと思いますと、計略としては粗末なものだといえるように思います。
 昔、斉が楚を打って楚の将兵を大勢殺し、千里四方の土地を切り開いておきながら、少しの土地も得ることができませんでした。これは斉が土地を欲していなかったからでしょうか。
 いや違います。あまりに形勢が悪く、保持することができなかったからであります。斉が疲弊し、君臣が不和になるのを見て諸侯は斉を討ち、君主は辱められ軍は大いに破られて、斉は天下の笑いものとなりました。
 斉は楚を討って、韓と魏とを肥えさせたのであります。
 これが俗に言う、賊に武器を与え、盗人に食料を与えるというものであります。


 これを踏まえて王は遠い国と親しく交わり、近い国を攻めることです。たとえ一寸の地でも得れば王の土地になります。こうしたことを考えずに遠くの国を攻めないというのは大きな過ちだと言えます。


 昔、中山国は四方五百里程度の小国でしたが、これに最も近い趙はこれを占領し、功成り名も立ち、利益もこれについてきました。天下の諸侯でこれを妨害できるものなどいませんでした。
 今、韓と魏とは中国の中原に位置しており、天下の中枢を占めていると言えます。
 王が覇者になろうと思われるのでしたら、まずは中原にあることで趙、楚を威圧することです。
 趙が強いときは、楚がこれを恐れてこちらに従います。
 楚が強いときは、趙がこれを恐れてこちらに従うでしょう、
 楚と趙とを従えれば、斉はこちらを必ず恐れます。
 斉が従うのでしたら、韓と魏とは必ずや廃墟にできるでしょう。」


 ・この話から、「韓盧を馳せて蹇兎を逐う」(かんろをはせてけんとをおう)という言葉ができております。
 名犬である韓盧を使って、足の悪いウサギを追うと。
 ここから強者が弱者に戦いを挑む。圧倒的な勢いでもって敵を破ることになると。



 おそらく、「狡兎死して走狗烹らる」(こうとししてそうくにらる)ってのはこれを踏まえてるのかなと思われますね。
 時系列としては案外チグハグかもしれませんが、昔の人も恐らくこうした歴史をいろいろと踏まえることでことわざを作っていたように見受けられます。



 ・これ遠交近攻の話でもありますね。
 遠交近攻については三十六計の23で触れてますのでそちらに↓
 ざっと書きますと、もともとは近い国と仲良くして遠い国を攻めようという「遠交近攻」があったのだということを書いてあります。ここでの秦王もそういうことを考えている節があります。近くにいる手下である韓と魏とを使って、遠い国である斉を懲らしめるのだと。そうして斉は失敗したのだから、秦も同じ轍(てつ)は踏まぬように、と范雎が言っているわけですね。



 ・どっかではもう書いたかもしれませんが、要するにこうして戦争、戦争を含めた行動に合理性が導入されていったのだということが重要だと思うわけです。
 遠くの国をのさばらせていては、うちのメンツに関わるから懲らしめるために攻める。
 攻めるけど、でも滅んでもらっては困る。困るから最後は滅ぼさないよう助けようとする。
 改革を行った商鞅や呉起は殺害されている。


 そうした流れがある中で、とうとう秦が合理性を積極的に導入しようとするわけですね。
 遠くではなく近くを攻める。 
 自国の領土を少しでも拡大する。
 利益を最大化するように仕向ける。


 こうした流れがあって秦は中華統一に成功するわけですが、でもいくつか見るべき段階があるわけです。
 ・商鞅の改革を受け入れたが、商鞅は殺害されている。
 ・范雎の遠交近攻策を受け入れている。
 ・始皇帝となるべき政が即位したこと。
 こうしたことは非常に大きいのかなと。


 逆に、魏では呉起によって強国になりましたが、呉起は追放されることになりました。
 その後楚でも改革しましたが、恨みを買って呉起は殺害されるわけです。
 燕では楽毅という中山国の将軍を使い、斉を滅亡寸前まで追い込みましたが、殺害されかけて楽毅は趙に亡命します。
 斉の方では田単という将軍が楽器を追い払い、斉の領土を元に戻しますが、讒言によって処刑されかけたりします。
 呉では、伍子胥や孫武を配下に加えて一気に勢力を拡大しますが、その後にあっさりと滅ぼされています。


 そうみると、魏、楚、燕、斉、滅んでますが呉も一大強国に成り上がる機会はけっこうあったわけです。
 ところが強国にはなっても、中華統一まではできていない。
 優秀な臣下によって改革し、富国強兵に成功はできてもそこで終わっています。
 一方、秦は商鞅の改革を煙たがり邪険に扱い、とうとう処刑しながらも、強国になっている。
 商鞅は邪魔だったが、改革にはうまみがある。
 それがわかったし、判断できた、そういう風土があったのだと思われます。


 どこの国も強国になれるチャンスはけっこうあった。
 それにもかかわらずチャンスをものにできていない。
 チャンスをものにする風土、姿勢。
 そうしたものの大切さが伝わる一端になる話かなと思います。
 単に秦がたまたま天下統一に成功したというわけではない。
 むしろその勝ちには必然がある。合理性がある。そうしたところを見ていくことが大切なのかなと思っています。













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