主人公たちがカノープスと初めて会った時の会話。
そうしてカノープスは主人公たちが名誉、自由、正義を理由として帝国と戦っているのかを問う。
しかし考えてみればこの三つの選択肢というのは非常に奇妙である。
なぜ名誉と自由と正義以外の選択肢がないのか。いかにもそれっぽい選択肢だが、しかし非常に恣意的な選択肢だといえる。この中からしか戦う理由は見いだせないのか。そしてその中に答えがない場合は、次のようになる。
理不尽さを感じずにはいられないような選択肢だが、これには理由があるのである。
①名誉のため
名誉のためを選ぶと、カノープスは友ギルバルドは名誉を捨てて帝国の犬になり果ててでも平和のため、シャロームの人々のために尽くしているのだと主人公に告げる。このギルバルドのやるせない気持ちがわかるか? いや、表面上の名誉を求める浅ましい貴様らにはこのギルバルドの真意などわかるはずもないだろうと言いたいのだ。表面上の名誉を求めて生きる者に、栄光ある名誉とは真逆の帝国の犬として嘲られ、身を屈して生きるギルバルドの崇高さはわかるまい、その境地には到達できまいと言いたい。
そしてオレはそれがわかっているということも言いたいのである。
この問題は根深く、普通のヤツにはわかりもしないだろうがオレはわかっている、貴様らとは違うのだと言いたいのである。
②自由のため
自由のためと答えると、階級なき社会、誰もが平等に暮らせる階級なき社会を求めているのかと聞いてくる。
自由の話が平等の話に置き換わっている。
そして他人より良い暮らしがしたいから人は生きることができるのだと言う。
ここで彷彿とさせられるのは、ランスロット=タルタロスの言葉である。
「自由とは与えられるものではない、自分たちの力で勝ち取るものだ」
圧制下から革命を起こす。
貴族を倒し、王制を打破し、民が主人となり、民主制を敷く。それは民主化であり、平等化の流れのはずだがところが階級は再生産されるのだと。民主化のリーダーが生まれ、結局階級は再び作られる。
これこそがバルマムッサで言うところの「首がすげかわるだけ」だと言えるのではないか。王が倒れ、民主化のリーダーが代わりに立つだけのこと。いかにも変わったかのようでありながら、「実際には何も変わっていない」という事態が起こる。ならそういうおためごかしをするよりははっきりと「首がすげかわっただけで何も変わらない」、そして結局階級は再生産されるだけということを認識すべきではないか?
少なくとも民はそう見ているよと。
そして差別があるからこそ、即ち人よりも裕福で恵まれた暮らしがある、保証されるからこそ人は頑張れるのだと。金、地位、そして見下されない人並みのメンツ。そうしたものが保証され、なおかつ与えられない人に対する優越感を得ることができる、だからこそ人は頑張るのだと。階級は、差別は必要悪だと。この社会はちょっとした犠牲がいる、それはこの社会が維持されるうえでの必要経費であり、その犠牲を誰もが望まないのではなく、むしろ望んでいるがために、つまりは自らの優越感のために皆が生きるからこそ、この社会は維持されるのだと言いたいのだ。
そしてそれこそがほかならぬギルバルドであるとも。
ギルバルドが犠牲となる。この土地を治めつつも実質的には帝国の犬でしかない。
そいつが犠牲となっているからこそ、皆はそいつを見下し優越感を得ることができているのだと、
しかしその優越感はギルバルドの自己犠牲による献身的な故郷愛から生まれている。その愛に対し、人々は見下すことで優越感を得るだけの対象としている。全く浅ましいことだが、しかしそれも見下されるギルバルドあってこそなんだと。
即ち、ギルバルドは偉大であると言いたいのである(ところが実際にはカノープスのみならず誰もが皆ギルバルドのことをよくわかっているしよく考えている、別にカノープス一人がわかっているわけではないが本人の方ではそう思っている、よくわかっているんだという独善的なものがある)。
ところでこのことと真っ向から対立している事実がバルマムッサだと言える。
カノープスは「他人より楽になりたい、幸せになりたいと思うからこそ人は生きることができるのだ」と言っている。
ところがバルマムッサの住人たちは収容所の中が一番いいと言う。
食う物にも困らない、戦禍にも巻き込まれない。
革命とか言ってた息子は戦禍に巻き込まれて死んだのだと。
つまり過酷な環境下にも関わらず、本人たちはこの環境に満足していた。「家畜以下」と言われるような環境下であっても、蔑まれて卑しい目で見られようとも、収容所の中にいる限り食べ物に困らず、命は保証されている。即ち「安定」しているといえる。それなら外に出るよりは、増してより良い生活を求め自由と平等を求めて戦うよりは、中の方がよほど安定していると言える。
従って「他人より楽になりたい、幸せになりたいと思うからこそ人は生きることができるのだ」というのは正しい、非情に正しいのだがそれと同じくらいに命の保証、食い物の保証、それらを含めた「安定」の保証があるからこそ人が生きることができるという事実も正しいと言える。この二つは矛盾しているが、どちらも正しいと考えられる。
まあこの矛盾を敢えて繋ぐなら、安定と満足に飽きたら、そして高みを目指す隙を見つけたなら人は欲望に従って思想めいたものを唱えつつ高みを目指し始めるという事もできるだろう。
③正義のため
これはバルマムッサそのものを表していると言っていい。
自作自演でウォルスタ軍はバルマムッサの収容所で虐殺を行った。5000人殺害してすべての罪をガルガスタンになすりつけた。
これによってウォルスタは戦いの大義名分を得、また「非道な行いをした」ガルガスタンからは離反が相次いだ。
ロンウェーは正義となった。そしてバルバトスは処刑される。
力こそが正義であり、それは「死人に口なし」とセットでもあるのだ。
そしてこのことはカノープス自身のことを念頭に置いている。
いくら正義を唱えたところで、圧倒的な帝国を前にしては無力であり、徹底抗戦を唱えたところで全滅するのがオチ。故郷も戦乱に荒れ果てる、それなら降伏した方がいいというギルバルドの言い分は正しい。それに反対するだけの力もない。
圧倒的な力の前には、正義などいくら唱えたところで無に等しい。
カノープスが吐き捨てているのは、別に解放軍に対してではなく、自らの無力さに対してだと言える。
こうした名誉、自由、正義と見てきたが、カノープスがなぜこう言っているかと言えば、結局自分とギルバルドの境遇を念頭に置いたうえで、自分が言いたいことを言っているだけだと言っていいだろう。別に解放軍に恨みがあるわけでもなく、解放軍に八つ当たりしたいのでもない。言っていることは鏡のようにはね返って自分自身を責めて痛めつける、それによって自らに言い聞かせる、それはまるでSとMを自分で用意して自分で自分を痛めつけているに等しい。
それによる攻撃と守備、二重の痛みを感じ、感じては満足している。
この会話のカノープスの本音は恐らくそこにあると言えるのではないだろうか。
帝国に対し、主人公一行は立ち上がる。
カノープスも戦いたいのであれば、その流れに乗って立ち上がればいいわけだ。
ところがそうなるとギルバルドと戦わなくてはならなくなる。その先で帝国を負かす確信もない。
戦いたいのだがこのシャロームを戦禍に巻き込んだらギルバルドの守ろうとした平和を破ることにもなる。
そうした煮え切らない態度とこの自作自演、自らによってSとMとを完結させるのとは非常に密接な関係があるといえるだろう。
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