空城計(三十六計32、敗戦②)
空城計(くうじょうけい)……「空城の計」
→わざと城門を開いて、隙だらけにして敵を惑わせる計。
・解説……劣勢時にさらに劣勢に見せかけることで、疑いの中に疑いを生むようにしむける。剛と柔とがはっきり分かれる時には、奇策を打つことが更なる奇策に繋がるのである。
諸葛亮が司馬懿に対して打った手ですね。
司馬懿の大軍が諸葛亮のいる城に迫る中、諸葛亮は門を開けて兵士に身を潜ませ自らは琴を弾いて司馬懿を出迎えた。
司馬懿の方では、蜀軍が寡兵であることは知っていましたが、まさか門を開けて出迎えるとは。
「まさかあの天下の鬼才である諸葛亮が、なんの考えもなしにこのようなマネをするはずがない!」
と司馬懿は疑いに疑った末に、ここは撤退するのが吉だと撤退を開始します。
ところが実際はなにもなかったという話ですね(笑)
かつて劉備が劉表の下へ身を寄せ、新野にいるときに曹操が攻めてきたときにも諸葛亮は同じ手を使いました。
民家の屋根に火薬を仕込みつつ撤退、城を曹操軍下の曹仁(そうじん)に明け渡し、撤退したように見せかけましたが、夜になって奇襲をかけ火計によって城ごと焼いて大打撃を与えたと。
司馬懿のことですから、そのことを良く知っているからこそ諸葛亮は城すらも焼き払うようなマネをする、何をしでかすかわからない、だからこそ危ないのだというようになるわけですが。
この原本にも「空城計」は何もないところにさらに門を明け渡す、これによって敵の虚を衝くという例が挙げられています。
でもその計も、「前回空城計で城ごと軍を焼き払ったあの計略に違いない」と過去の記憶を彷彿とさせる要素があってこそ成立するところも大いにあるといっていいのではないでしょうか。
城を明け渡し、門も開け放つ。
いかにも隙だらけですが、しかし城内は火薬だらけ。
それは単なるこけおどしとは違ったものがある。いやな記憶を彷彿とさせるものがある。そうしたことが隠し味として効いてこそ、空城計は初めて真価を発揮すると言えるのではないでしょうか。
話はかなり違いますけど、スラムダンクで流川はいつも突っ込んでいきますけど、初めて敵を前にしながらパスをするシーンがあるんですよね。沢北に突っ込むだけじゃない、パスもあるのかと記憶させる。
選択肢を増やしてから攻める。敵に対応しなくてはならない手数を多く認識させる。そして攻めることに成功する(実際は失敗してますが(笑))。
これって一種の空城計だと言えるのではないかと思うんですよね。
「羹(あつもの)に懲りてなますを吹く」じゃないですけど(笑)、別にがら空きにしているわけではないですが、成功するため、勝つためにはパスをするという「負け」の形を取る。諦めの形を取る。ところが実際には勝つ気満々で、勝つためならなんでもする、そのためには屈辱的なパスという選択肢も受け入れる。沢北に負けの感覚を味あわせるためならなんでもする。それが流川の成長に繋がっているという…ことが描かれていると言えるのではないでしょうか。
強さの勝負で明らかに負けていても、うまさで負けているとは限らない。強さ+うまさの総合力で敵の力を上回ることもあり得る。そういう可能性が示唆されているように思えるんですよね。
ちょっと本筋と離れましたが(笑)
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