上がることと上げることとの間にある圧倒的断絶






 よく似たような話だし、恐らく両者が「≒努力」として片づけられているところに特色があるなと踏まえた上で。



 「龍馬がゆく」で坂本龍馬が言ってたのが
 「誰でもとにかく木刀(竹刀だったかな?)を振っていれば切り紙くらいにはなれる」ってセリフなわけだが。切り紙は要するに剣術の初段的な感じか。
 これって、「誰でも努力していれば一人前になれるよ」的に長いこと思っていたけど、そういう努力全肯定的な意味合いでは全然なくて。それ以上にいこうとした場合に、その姿勢では必ず行き詰ることを示唆している意味合いの方が強いんだな、とふと思った。どういうことかと言えば、特別の工夫をしなくても、何らの思想や方向性を挟まなくてもとりあえず「努力」していさえすればそれなりの立場になれる。早く木刀を振れるようになるし、うまくやりくりできるようになる。質にこだわらなくてもとにかく量、圧倒的な量が良質転化で質っぽさを演出することはあるわけだ。
 でも、そこで行き詰まる。なぜかって言ったら、それは明確な目的や意図なしにやってきたわけだ。それは上がることであっても、上げることではない。上げることは上がることほどそう生易しいものではない。




 上がるってことはその人の持つポテンシャル? 潜在的な能力をより引き出すことではある。とりあえずなあなあでも努力をそれっぽくしている、そうしているとその人の本来持っている能力や才能に応じて引き出されるものがある。それが3%、5%、10%と引き出されていく。その意味では、ムダに思えてもとりあえず努力らしいことをするってのはやはり引き出すことに繋がっている。能力を引き出すことに一役買っているわけだ。
 でもそうした努力なら、ある意味誰だってできるわけだ。それなら質とか問わずに量の多い少ないで勝負が決まる。つまり、上がること、それによって引き出された能力ってのは量の勝負であると。量の多寡によって決まるだけの勝負なら、誰だって勝てるわけだ。より多くやりさえすれば。それは上がる話。これはけっこう量によって引き出されるもの、つまり才能の勝負という面が強い。あー手が筋肉痛で痛いけどとりあえず振りましたとか。マメができていてーけど頑張りましたとか。そういう話。




 でも上げることってのはそれとは全く別で、量で勝敗が決まらない、あるいは際どい勝負になるならばそこからは質の面における戦いが始まる。それってのは闇雲に明確な意図なく目的なくやってきただけの量と、明確な意味合いあってやってきた質的な意味合いとの差を大きく問うことになるわけだ。そこにおいて、初めて量だけでは行き詰まる。勝てない事態が起こるわけだ。
 それはじゃあ才能の差とでも言い表せるものではないのか? と言いたいけれど、確かにそれもある。というより全くないとは言えない。しかしそこで発揮されている才能とは結果に表れる性質のものであるわけだ。それをじゃあパクることが不可能かといえば案外そうでもないし、絶対に克服不可能かと言えばそういうものでもないことの方が圧倒的に多い。
 上げること、それを詰めていくこと、それは何かといえば意志の力がかなり要求されるし、つまりけっこう頑張らなくてはならないものだし頑張りぬくことが求められる。それには目標を明確化、具体化しなくてはならないし、それで自分の弱点を克服していくこと、そして長所を伸ばしていくことも求められるだろう。つまり出したくもない課題をわざわざ自分の前に用意しなくてはならないしそれを克服する方向性ももたなくてはならない。
 「意識化」という作業が求められるし、そしてやりたくもない課題を日々こなしていくことも求められる。
 つまり上げるってのは具体的に何かを表してみれば、かなりの部分がやりたくもないことに向き合うこと、見たくもない面に向き合うこと、別のことしたい、やりたいことなんか腐るほどあるのに、敢えてそれを無視して苦手なことに向き合うことだったりする。この領域というのは、それまでの上がる感覚では到達できない、到達の困難な領域だったりする。それが何かといえば意識化し、分析し、課題を立ててくことだったりすると。
 で「文武両道」などというが、勉強をする習慣がある人が運動においてもその勉強に向き合ってきた志向性や仕組、概念や経験を持ってやってきて、それを当てはめていくと異常に上達が早かったりするが、それは勉強によって上げることの方向性など、要領が良く分かっている場合がある。これは運動→勉強というベクトルではなかなか到達しづらいところがある。



 読書も大部分は同じで、意識化し分析し何が書いてあるかをいちいち考えていくとか身の回りのことにいちいち当てはめてみる、置き換えてみるって作業は結局のところ同じ仕組みを持っているなと。
 読書が役に立つ、勉強が役に立つってのはその中の仕組みや枠組みがしっかりしているがために、他のことにおいても応用が良く効くということに特色があると言えるのではないかなと。
 だから勉強や読書→運動は◎だけど、運動→勉強は△だったりすることが起こる。運動だけでは「枠組み」を育てることは非常に難しい。




 そういうわけで上げることと上がるの違いを並べてみたが、例えばK-1などで昔セームシュルトが圧勝してたりしたのだが、セームシュルトはこの上がる→上げるのさらに先の才能の話。ま、人生時にはそういうこともりますわな(笑)



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