遠交近攻(三十六計23、混戦⑤) 改






 遠交近攻(えんこうきんこう)……「遠く交わり近く攻む」

 →文字通りの意味:遠い国と親交を結び、近隣の国を攻撃する。挟撃する。






 ・解説……こちらが不利で勢いが出せない時には近くの敵地を奪うのが最も良く、遠くを取ろうとするのは害であると言える。「上火下沢(じょうかかたく)」というのはこのことである。

 ・解説の解説……上火下沢とは、「上に火があり、下に水あり」を意味するもので、同時に存在すれば互いに背く、傷つけあうことを意味する。互いに打ち消し合って同時に存在はできないんだけど、しかし距離さえあれば本来別々に存在はできるものであるということも含意しているといえる。

 つまり適切な距離感さえあれば火に対して水を持って攻めることもできる(し、水に対し火で当たることもできる)のであると。そういう距離の遠近と適切な用途について言及しているものだと言える。





 これ、「遠交近攻」なんてそりゃ当たり前でしょと言った感じがしますが、これのもとは何かって言ったら「遠攻近交」があったんです。近くと親しく付き合って遠くを攻めましょうと。

 それによって領土を奪い取ることもあったでしょうが、まあ飛び地みたいなもので維持管理は非常に難しい。まあ領地はおまけであって、一番は遠くの敵を「懲らしめましょう」ってわけですね。やつをのさばらせておくとオレのメンツに関わる、困難で出兵できませんとなると敵がますますつけあがってのさばりかねない、だからこそ国と君主の威信にかけても、困難な出兵をしてやるぞと。

 そんな感じですかね。




 さらには敵国が滅ぶと困る人が大勢いたってのもカギですね。

 んなアホな!って話ですけど、例えば韓信なんて敵国である強大な楚と項羽を滅ぼしたら、今度は速攻で殺害されなくてはならなくなったわけです。

 敵を滅ぼす、その土地を併呑(へいどん)してこっちは強国になれました、めでたしめでたしなんてのはかなり偏った話でありまして。

 楚を、そして項羽を滅ぼさなかったとしたら韓信がもっと長生きできたろうってのは間違いない話ですし、また項羽側にしてみたらそれを考慮していれば案外生き延びられたかもしれません。




 呉王である闔閭(こうりょ)は越王勾践(こうせん)を滅亡まであと一歩まで追い込みましたが、命乞いされたので許されました。

 ところが形勢が逆転して勾践が夫差(ふさ)を追いつめると、自分が命乞いをして許されたことを考えはしましたが、許しませんでした。そして夫差は自害して果てるのですが、ここまですんなりいく方がレアな話であって。

 この当時の「普通」はどっちかといえば追い詰めないし、滅亡もさせないわけです。




 これらの事情を称して「狡兎死して走狗煮らる(こうとしして そうくにらる)」、

または「高鳥尽きて良弓蔵る(こうちょうつきて りょうきゅうかくる)」と言ったりもします。

 ウサギが死んだらそれ用に飼っていたイヌも使い道がなくなるので煮られ(て食べられ)る。

 鳥が取れてしまったら、それ用のいくら素晴らしい弓であっても使い道がなくなるのでお蔵入りする。

 そういう、普通のバランスとはまた違ったバランスがあるってわけですね。








 ・話を戻しますと、合理的に考えていけば領土を取って国を膨らませれば国は富むわけですね。ところが国の「威信」とかが出てきて領土のためじゃなくても攻めることが行われていたりするのが春秋戦国時代だといえるでしょう。「遠交近攻」ではなく「遠攻近交」してたわけです。

 紛らわしい(笑)

 でもこれによって首を切られないで済む人が大勢いたのだと考えられます。クビにならずに済んだ人がってことですね。




 ところが秦では「遠交近攻」が説かれたわけです。范雎(はんしょ)という人が説いたんですが、これで秦の方針ががらっと変わった。

 さらには始皇帝となる政(せい)が出てきた。これによってさらに合理性重視になったわけです。役に立たなければクビどころか本当に斬首する人ですね。

 結果的に政によって中華統一され、政は始皇帝を名乗るわけですが。ここで問題にしたいのはそこではないと。本当はもっと早く統一することは不可能だったかといえば十分に可能だったはずです。






 じゃあなぜ統一できなかったのか。

 それは「遠交近攻」策と、それからなる合理性だけではとても片づけられないものがあると思います。




 もともとは「遠攻近交」だったということ。敵国に滅亡されては困る事情が統一させなかったのではないかなと。もっと言えば七国に分かれている方が都合がよかったということですし、さらに言えば自分の首(クビ)のためなら自国の発展を阻害する要素があったし、それは非常に強かったんだと。

 いってみればそれはアクセルではなくブレーキですよね。

 このことを徹底的に詰めて考えることは必要なんじゃないかなと思っています。





 →教訓:「遠交近攻」策の前には「遠攻近交」があったということ。敢えて近くではなく遠くを攻めなくてはならない事情があったといいうこと。
 そしてそれにはそれなりの合理性があったということですね。





 追記。

 「成果主義」があるとしたら、成果を出さない意味での「成果主義」もあるわけです。それは反成果主義といえるでしょうが。それは敵を滅亡させないし滅ぼさないわけですが、しかし保身のためには非常に有効だったりする。

 まして韓信の例を見れば、項羽を滅ぼさなかったならば死ぬことはなかったろうにと思えずにはいられません。戦略や戦術の天才ではあったでしょうが、保身にはあまりにも長けていなさ過ぎた。もっと言えばお人良し過ぎた……

 それに対する反省の流れがあるわけです。



 現代でも仕事をあまりにも速く終わらせたら新しい仕事が振られて損だから速くしないとか、いかに引き伸ばすか、それが仕事みたいな面はかなりあります。成果主義、韓信みたいなことをしても最終的に待ち受けているのは過労死と首切り、給料カットだったりする。

 そうした流れはこの現代においても無縁じゃないし、いかに保身をするか、いかにうまく立ち回るかが仕事である、という面はかなり濃厚です。

 成果を上げるには、あまりにもブレーキが強過ぎた。そうした時代を打開する要素がAIとリストラと成果主義だとすればまあ人間の歴史は1000年経っても2000年経ってもあまり変化しないよなと思わされたりしますね。









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