以逸待労(三十六計4、勝戦④) 改






 以逸待労(いいつたいろう)……「逸(いつ)をもって労を待つ」
 →「安逸な状態、休養し充実した状態で疲労した敵を破る」



 「秦の将軍王翦(おうせん)は六十万の軍で楚と戦うことになった。楚の守りは固く備えは固い。そこで王翦は兵士を十分に休養させ食糧を与え手厚くねぎらった。そうしてしばらく経つと兵士たちは力を持て余し、遊び始めるようになる。充実したと判断した王翦は楚を攻める。楚は固い備えで疲労し、秦軍は攻める気はないと見て引き上げているところだった。これを追撃し、王翦は楚を滅亡させた」


 ・解説……「敵が充実している時にはその勢いを留めて戦闘しない。強い敵の勢いは削いで、弱い味方の勢いは増す(剛は損して柔は増す)」



 「以逸待労」という言葉自体は『孫子』中にもそのままあるようです。「風林火山」みたいなもんでそれがそのままことわざになったケースでしょうね。
 ここには敵と味方の士気を比較し秤にかけているような様があります。できるだけ自軍は疲労を減らし余力を増す、一方で敵には余力を減らさせて、疲労を増やす。そういう目線がここにはあるし、それを比較検討する目がある。漠然としたようでありながらも、できる限り自軍を有利にし、同時に敵軍を不利にしようという思惑があり、そのように事態が推移する。
 そして水が低きに流れるように当然のように敵を打ち破ると。
 王翦も敵を弱くするとか背中を向けさせるとかはそりゃあできなかったにしろ、味方をできる限り強くしようとした。勢いを増そうとした。そういう思惑があり、狙いがあった。ここが重要なんでしょう。



 孫子も「攻ということは敵の守備状況や天候などが加わって絶対に勝てると言うのは難しいが、守に関しては自分の目線で判断していろいろできるし完璧を目指せるものだ(から攻めることよりも守備を重視すべきだ)」と言ってましたが。
 これ自体は守備の話ではありませんが、そうしたニュアンスってのはここにもけっこう見いだせるんじゃないかなと。敵が弱いか強いかどういう備えをしていてどうなるかはかなり不確定要素が強いが、しかし自軍が長躯遠征してて疲弊して今弱くなっててまずいなとか、じゃあまずは疲労を回復して自軍を強化しよう充実させようというのはできることだと。
 こうして、決して闇雲に戦って時の運で勝ったのではなく、王翦がある程度の狙いがあって休養させてやった、そうして万全にしてみると、なんと敵が背中を見せててラッキーだった、というのが重要なんじゃないでしょうかね。



 ・これ、孫子で「兵士が十倍なら囲み、五倍なら正面攻撃、二倍なら敵を分断、敵の方が多ければ逃げろ」って言ってましたが、要するに敵に絶対に勝てるだろう余裕の兵士数を用いて、(どうせ戦うしかないなら)絶対に勝てる戦のみをしろとありましたけど、それに通じるところがありますね。
 決してムリはしないし、運否天賦、勝つか負けるか、そういう状態で戦争はしないべきだしそもそもそういう状況に陥らないべきだと。そういう「いけるか? もしかしたら勝てるか?」というような状況で決戦をしかけるべきではないし、ましてそのムリや危うさ、不確定要素を努力や根性で埋めてまで勝機を求めるべきではないと。
 要するに「危ない橋は渡らない」ってことだし、仮に辛勝かな? というような状況であればもっと楽に効果的に勝てないかなと模索すべきだし、それがムリそうであるならそもそも戦わない。
 努力、根性、我慢、忍耐。その果てに皆が皆精根尽き果てて今にも倒れそうになり、そういう犠牲を必要とするようなやり方をしているならそこはダメだし、そういう状況に持ち込んでいる人の思考があかんってことでしょうね。
 →教訓:無理は禁物である











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