孫子を活かすには? 人と人脈






 人と人との関係性は、植物によく似ている。勿論そこにはなにもないのだが、あたかも水をやったら成長するかのようなものがある。これはつまり意図して水をやっても育つが、雨が降っても同様に育つことを意味している。つまり、それをもたらすのは果たして偶然か必然か。偶然に支配させるのか必然によって支配させるのかが重要である。ほっといても育つといえば育つ。しかし日照りが来た時にはもはや枯れるのは必定。偶然に任せていれば、生は勿論死も偶然によって支配される。偶然の手に任せることは、その偶然による支配状況を黙認することに等しい。


 そうした偶然から支配権を人の手に取り戻すことは管理だといえる。雨に頼らず、人の手で意図してそれを育てよう、枯らさぬようにしようという意志の介入がここには必要である。
 人脈を言う人で人脈を大切にしている人をあまり見かけたことはない。人脈はあれば、雨が降るなりなんなりして関係は維持されると漠然と思っている人は多い。ところが意識していないと、そのラッキーすら自分の力で踏みにじって粗雑に扱い失礼をし、相手に不快な思いをしても人脈はまだまだあるのだからとたかをくくっている人がある。
 この人脈とはあるものでしかなく、する対象ではない。偶然にすべてを委ねている結果である。



 ところで雨に関しては上記のような内容があるかも知れないが、光に関しては事情が別だという場合がある。ああ、雨の時に枝を伝って上から水が滴り落ちてくる。これは大木による恩恵だと思っている。大木があるからこそ、雨の時に水が入ってくるのだ。勿論これは誤解であるが、そういう認識というのはよくあるものだ。それどころか大木によって日々の日光が遮られ、成長が抑制されている場合すらある。日光は遮られ、成長が抑制されていながらも、それでもしかし雨の時に水が上から落ちてくるのは大木のおかげだと誤解する。
 一方で恩を感じながら、実態は成長の阻害。よくよく分析してみるとそういう場合もあるのだから、分析というのはよくよくなされてみる必要性がある。
 日光が無さ過ぎても枯れるが、有り過ぎても日照りで枯れる。同様に水も無くては枯れるが、有り過ぎても枯れる。こうした按配というものはよく考えられる必要がある。



「人という字は互いに支え支えられしている」という言説は多く蔓延しているが、そういう神話はありながらも実態はそうでない場合がある。大木が雨の日には枝から水を伝わらせてくれるという神話、そして実際には日光を遮っているという実態、そうしたものをよくよく分析し把握して考慮していく。そしてそうした管理を人の手によって行っていく。水をやり、日光を当て、手間暇かけて育てる意志は必要である。
 関係などは意識しなくてもある。
 ほっといても運があれば育つし枯れない。
 しかし運が尽きれば、明日にも枯れて果てるに違いないのである。



 例えば年賀状を送るなどというものは一見時代遅れで廃れた習慣のようにも思える。しかしその意図は関係性に水やりをする行為であり、偶然から人の手へと意識的に主導権を移し、管理しようとする方向性を持っているものである。
 たかが年賀状一枚だが、これが意外と馬鹿にならない力と意味合いを持っているのである。




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