孫子を活かすには? その② 至誠と至巧






 楽器は趙に亡命し、燕の恵王に手紙を送る。「楽毅報燕恵王書」によって先王から受けた恩の深さを明らかにし、楽毅が死ぬ事が先王の名を汚すことを恐れるからこそ生きるのだと説明している。これによって楽毅は自らの潔白と忠義を明らかにしつつ、先王のためには死ねないことを明らかにする。こうして至誠が示され、多くの人々は感動し、中国に伝わる名文として歴史に長く残ることになる。

 しかしここに記された内容は果たして至誠そのものだっただろうか。効果的と言うならば、これほど一つの手紙で効果的であり、意味を多く含んだものはなかなかないと言える。その意味のひとつがたまたま「至誠」という形で現れたに過ぎないと言えるし、その本当の狙いは死なないこと生きることそのものにあるとも言えるだろう。

 邪推以外の何物でもないが(笑)、しかしここには研究されるだけの余地がある。

 至誠は確かに至誠だが、それは最も効果的という意味では至巧の極みとも呼べる。




 「情けは人のためならず」という。人にいいことをするというのはその人のためで留まらずいつか自分にも巡り巡って戻ってくるという意味である。

 これを至誠と取るか、至巧と取るか。これが問題である。いいことをする人はただ親切でいいことを他人にするに過ぎない。しかしそうでなくても、実利主義として透徹された目線でこれを行うこともできる。どちらも結果は同じで、結局巡り巡って自分に返ってくることがある。あるいは、物事が自分にとって悪いように流れたとしても、あいつには以前によくしてやったからまあ悪いようには転ばないだろうと思うこともできる。

 悪いことをしたとしたら、いい結果は期待できないだろうしさらに悪い結果となって巡り巡って自分のところへ戻ってくるかもしれない。いいことがあったとしても、その芽を潰すことがどこかであるかも知れない。情けは人のためならずとは真逆の、あたかも悪事をして墓穴を掘っているという話もあるといえる。いいことが巡り巡って自分にプラスをもたらすように、悪いことが巡り巡って自分に災厄をもたらす場合もある。つまり他人への情けがそうした災厄を防ぐ効果も中にはあるといえるかもしれない。





 こうしてプラスから生まれるプラス、プラスによって防がれるマイナス、マイナスによって招かれることがなかったプラスと、マイナスによってさらにいやますマイナスという四つがあるといえるだろう。



 田舎では人に過剰なほどの贈り物をしたりする。そしてそれに対する返礼などもまた過剰にあったりするが、そうした様式というのは一見奇妙だがその実、非情なほどの合理性をその内に持っていたりすることがある。それというのは至誠に見せた至巧であり、至巧でありながら嫌みのない他人への恩恵である。ここに含まれる知恵、至巧というものを改めて再認識されるほどの必要性を感じる。




 だからこそ、ここでの結論は至誠たれということではない。

 誠意はなくとも、その合理性を突き詰めて考え、至誠がないならその分を至巧で補え、ということである。








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