孫子を活かすには? その①片付けについて





 片付けというのは兵法そのものだと言える。韓信は100万の兵でも「手足の如く」用いたとされる。生きた人を手足の如く扱うのである、まして意思もなく好き勝手に動いたりしない物については言うまでもなく扱える必要があるといえる。
 整理整頓とは、物を緊急―重要の別に分ける行いである。必要なものを必要な時に取り出せることが求められる。x軸に緊急、y軸に重要をおいたグラフを作りそこに配置してみれば重要性、緊急性、またはその両方があるものを見出すことは容易くなるといえる。火事なのに、重要なものに囲まれて消火器が出てこないのでは本末転倒であるし、あまりに緊急事態に備えるあまりに重要書類が消火器の山に埋もれては本末転倒である。こうして物がその真価を発揮できなくなる例というのは少なくない。



 物を扱えるか、使いこなせるか、その本質をどこまで引き出せるか、発揮させられるかに人の手腕は常に問われている。
 まるで本屋のようにきれいに本が並んでいながら手垢もついていない、一回も読んだことないし内容にも興味はないという例は多いといえる。
 では習慣とはそれに当てはまるのかといえば一概には言えるものではないのだが、その問題は合理的であるか否かに問われている。乱雑であっても回っていればそれは回っているのだし、一見きれいに見えてもきれいにしすぎて物がないのでは回っているとは言い難い。どこまでスムーズに扱えるか、どこまで探すのに時間がかかっているか、その頻度はどのくらいなのかは常に念頭に置く必要がある。
 素晴らしい物が集められる。ところが重要と緊急の別がついておらず、その長所が死んでおり短所ばかりが目立つ場合は少なくない。
 盾兵に突撃させて、騎馬兵が守る。あるいは鉄砲隊が突撃し、騎馬隊は後ろをついていくなどという例は歴史上では滅多に見られるものではないが、現実にはこれが少なくない。妥当なものに妥当な配置をさせるというのは意外に難しいし、その意義を捉えている例はあまり多いとは言えない。それは100万の兵を喜びながら、混乱の末に敗退するようなものである。集めることと使いこなすことは全く違う。



 韓信は乱世の英雄だったろうが、治世では真っ先に抹殺された。優れた将軍は最も恐るべき対象となった。
 同様に秦の李斯は功績は大きかったが、そのために趙高に利用された挙句刑死した。牙を抜かれては手も足も出ない。
 誰もが認めるような名将ですらこうした末路を迎えるのだから、まして凡人であると自任するならばこのことを踏まえねばならない。名将を使いこなせないばかりか、恐れて真っ先に殺害せねば気が済まない。
 これが人の世である。




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