孫子を活かす方向性






 不思議なことにかあるいはそうでなく必然なのか、孫子をけっこう読み込んでからというもの確かにいろいろと認識が変わっているなあとふと思った。確かに孫子になぞらえて認識するようになっている。別に読んだことが直接活かされているわけではない。しかし少し間を置いて、ワンクッション置いて直接関係ないことまで影響が出ることがあるというのが非常に興味深いと思った。




 そうした事柄というのはつまり、幾つかに分けられるように思う。
 ①原文にあくまで沿った上での変化や思索
 ②直接原文と関係ないように見えるけども確かに内容が関係しており、間接的ながら影響がある変化や思索
 ③全く関係ないけどとりあえず孫子と結びつけられる変化や思索


 大まかに言ってこうした内容に分けられると思う。そして①と②、そして②と③の差異というのは、これを区別するということは非常に難しいと思うわけである。
 たびたび引用するが、原文に沿えば孫子は「略奪は効率的だ」と言っている箇所がある。これは確かに沿ってはいるけども、それを現実にやってみたら一発で捕まるような内容である。捕まってから「孫子に書いてあった」と一応は言えるし、ある意味孫子の原文の応用だと言っても全くの間違いではない。孫子読んで窃盗しても孫子的には間違いではないが、でもそれは「窃盗OKだ」というものではないし、そもそも本筋からは大きく逸れてるとみなせる。短絡的に盗んで捕まることを推奨しているとはとても思えない。全く賢明ではない。
 それが仮に本筋そのものだとしてもである。



 また、「廟算」ということを「静かなところで集中すると勉強が捗る、座禅とか非常にいい」的な内容で解釈している本もある。これが孫子の解釈本なのかとこれも首を傾げざるを得ない。そもそもそれは本筋ではない。それを捕まえること、さらに膨らませるというその方向性はどうなのだろうかと思う。間違いではないにしても正解だとはとても言えるものではない。まあ△という印象である。
 一般的には正解のような内容ではあるが、孫子の本筋には沿っているとは言い難い。




 つまり原文に沿いながらも現実と合っていないこともある。
 さらには一応書いてないことはないけど、本筋とは関係ない。そうしたことが散見される中でじゃあ「孫子を具体的に活かす」という方向性はどのような意味を持ち得るだろうかということである。
 まして②や③のような直接孫子の原文と関係ないような内容ある、それを考えようというわけだから根は深い。



 さらにはまあ基本主観的に考えましょうというスタンスなので(笑)大きく逸脱する恐れもなくはない。というより批判してながら「やっぱ座禅はいいよ」という結論に陥るかも知れない(笑)
 そうした可能性というより危険性を踏まえつつ、孫子を読んで得た内容をもしも「現実に活かす」という方向性があったならばと思うのはやはり重要であるし、必要であるとも思うようになった。個人が咀嚼し、分解して一体どのような形に収まるのか。妥当な形はどのような形になるだろうか。


 古典を読み、歴史を読んで「兵法として」活かされた事柄をなぞってはただ愛でるだけが兵法ではない。活かすのではなく愛でる、韓信の兵法以外は兵法としてみとめない、そうした消極に陥って全部不正解としてミスることもあれば、積極的に活かそうとして外す場合もある。なんでもかんでも孫子孫子で窃盗してるのも変な話である。



 そうした中から妥当な収まり方をしつつ、本質を外さないような生き方はどのようにして形作られるかをもっと模索していいように思ったわけである。













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