呉子 その3 「意見が上がらないことを悲しむ」







 ある時に会議が開かれたが、誰一人として武候以上の意見を言う者がおらず、武候は得意げであった。
 そこへ呉起がやってきた。


 「楚の荘王が会議を開いたとき、誰も荘王よりもすぐれた意見を出さなかったので王は憂いの表情だった。
 そこで臣下が、なぜそのような顔をなさるのですと聞いたところ、王はこう答えた。


 『どのような時代にも聖人はおり、どのような国にも賢人はいる。
 それを見出して師と仰ぐ者は王となり、友として迎える者は覇者となるという。
 私は至らぬ者であるが、臣下は誰も私にさえ及ばないことがわかった。これでは国の前途が危ぶまれてならん』


 荘王はこれを憂えたというのに、あなたはこれを喜んですらいる。
 これでは、この国の前途が危ぶまれてなりません」
 武候はこれを聞いて、大変恥じいった。


 これが意見が上がらないことを悲しむという話である。
 この話から感じられたのは以下のことである。
 ・「頂点」の危うさと怠慢
 ・「謙虚」の妥当さと賢明さ


 ・頂点であることは危うい。
 それ以上はなく、それ以上を見出すことは難しい。
 というよりもそれ以上を見出したくないという怠慢と願望も絡んでくる。これが厄介である。
 オレは一位だということはそれ以上はないという事実以上に、それ以上を見出したくなく見出せる対象を消したいということにも繋がる。それ以上、自分をさらに高める可能性があることを喜べない、喜ばない。消したいとなる。
 対象を消すことで一位を保つ、なんてのは方々でよく聞く話である。



 実際の一位もあるが、本当はいても言えない、見つけられない、見つけたくない事情が絡んでくると、そりゃ常に一位であることは可能だがそうして誤魔化し続けた先にあるのは大体が破滅である。少しづつ認識をずらし、自分の都合のよいように歪めていった先で破滅が訪れるのはある意味自然な話である。
 そうなると「一位」なんて果たして他者に勝っての一位であるか、他者を消しての一位であるかなんてわかったものではない。人間は都合よく認識を歪めることが可能であるのだから。



 ・これを踏まえると「謙虚」というのは知恵であると思う。
 傲りは破滅に繋がる。だとすれば謙虚は譲ることに繋がる。一位である栄光を他者に譲る。これは栄光を手に入れないということ以上に、ある意味では破滅を他者に譲る意味合いもある。ある意味で、導火線に火のついた爆弾を他人に回すことに等しいと思う。



 三国時代、玉璽を誰もが欲しがった。
 それを見つけた孫堅は「これは天から与えられた僥倖だ」と喜ぶが、この玉璽を狙う諸侯、袁紹や袁術に徹底的に追い詰められ劉表に殺害される。孫堅の子、孫策は玉璽を袁術に譲る。そして袁術は皇帝を名乗る。
 そして譲った孫策は江東の支配者となり、もらった袁術は滅んだ。明暗ははっきりと分かれたのである。
 まるで玉璽を持つ者に災いが訪れるかのように、孫堅も袁術も手にしてから間もなく滅ぶのである。



 謙虚と傲慢の問題とは、この「玉璽」に等しいと思う。
 自分が皇帝にふさわしいと思えば玉璽を持つ、さらには「これは天意だ」と皇帝を名乗ったりもする。
 しかし「自分にふさわしくない」と思えば、あるいはほかの諸侯が欲しがっているのを知れば、譲ることに繋がる。
 こうして、危険を自分から遠ざける効果はあるように思われる。まあ他人に押し付けると言えばそれはそうなのかも知れない。だがとりあえず自分の破滅は免れることができると言える。
 これはもらった袁術と、譲った孫策との差だと言えよう。
 譲って栄えた孫策と、譲られて間もなく滅んだ袁術との差は明確である。



 ・もうひとつ、謙虚は可能性を閉ざさないということを利点に挙げたい。
 自分が一位だという認識は、ずっと一位であってほしい、保ちたいという願望へ、そして認識の歪みへと繋がる。そうなると入ってくる情報を歪めたりもする。しかし「自分よりももっと優れた人はいる」という思いは可能性を閉ざさない。認識を広げ、実際に優れた人がいた場合に許容することへと繋がるといえる。
 こうして情報を歪め、さらには自身の認識を歪めない状態を保つことができるのである。



 先に挙げた武候が呉起によってもしも諫められなかったらどうなっただろうか。
 「こいつオレより優れてるんじゃないか」と思わせるような賢人に出会った時に果たして抹殺しなかったかどうかと言えば、抹殺しない保証はない。自分は優れているという認識を崩しかねない危険人物となりかねないからである。



 言葉の統制は、認識の統制だと言ってもいい。
 諦めるな、辞めるな、頑張れ前ヘ進めと言うのは易しだが、そうして十全な思考を奪われて今日たくさんの過労死や自殺者が生み出されている。それを常識というならば常識を押し付ける側にも責任は必要だろう、しかし押し付けるのは簡単だが死んだ者はもう戻ってはこない。
 非常識と言われようと、逃げろ、辞めろ、頑張るな避けろという方向性は会っていいと思うし、そういう思考能力は保全される必要があるのではないかと思う。
 また、そういう思考の方向性を奪うことを当然のように強いる現代の常識はもっと疑われてもいいように思ってみた次第である。ちょっと話はズレたけれども。




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