呉子 その2「戦って勝つことは容易く、その成果を守りきることは難い」





 ちょっと飛ばします。
 この呉子は基本的に「こんな場合はどう戦ったら勝てるか?」→呉起が「こうこうしたら勝てますよ」とアドバイスしたりする話が多いので、そうしたものはいかにも兵法らしいですが、まあリアルで役に立ったり含蓄を多く感じさせることがあまりなければ、極力端折ろうかなと思ってます(笑)
 ということでたぶんかなり量は少なくなりそうですが。



 戦って勝つことは容易であるが、その成果を守り切ることは難しい。だからこのように言われている。
 「五度勝つ者は破滅し、
  四度勝つ者は疲弊し、
  三度勝つ者は覇者となり、
  二度勝つ者は王となり、
  一度勝つ者は帝となる」
 古来、勝って天下を取った者は少なく、かえって滅亡した者が多いのはこのような事情によるのである。


 こうしたことが紹介されているくだりである。
 「まるで勝ってはならぬかのような言い方ではないか!」と言われそうだが、実際それはかなり正しいと言えるだろう。勝つこと、勝利、勝ちは基本「いいこと」だと見做されているところが大だし、実際「勝って何が悪いの?」と思うところが多いと思う。だからこそ、このくだりはより重要さを増すものではないかと思えたのである。


 ・戦ってはならないというのは孫子にもあったような内容だと思うし、基本的な考え方は同じだと思っていいだろう。戦ってすり減る。民は疲弊し兵も疲弊する。すると横から別な勢力に攻められたりする。戦争は引き算でしかない。しかしもし戦わずして相手を屈服させられたなら、敵もこちらも勢力はそのまま保存され、勢力は増す。単純な足し算が成立する。戦わずして相手を仲間に入れるべきであり、対立したり敵対することは損ばかりであると。


 ・では勝つ事はどうなのか。勝ってはならないのかである。
 戦争がもしも始まったならそりゃ勝つ方がいいに決まっているし、負けるわけにはいかない。
 しかし問題なのは、勝ち過ぎることにある。
 勝つことで相手の恨みは溜まる。新しい根強い敵を作り、後々まで付け狙われることになるかも知れない。
 勝って味方に疲労は溜まる。
 勝ち続けると味方の中には不満も溜まる。
 勝って従わせると、相手からの反発も生まれる。


 昔は、勝つことは、略奪したりその取った物の一部を味方に褒美として与えることも同時に意味したに違いない。それは孫子にある通りである。その意味では確かに勝って勢力を増すことはあった。
 しかし同時に見えないところでマイナス要因を積み重ねる事態が起こっていただろうことは間違いない。人々の恨み、反発、自国の疲労、不満が積もり積もる。そうして勝った後に瓦解していった組織というのは決して少なくないのである。
 「百戦百勝は最高の形ではない」というのは孫子の言葉だが、それは恐らくこうした背景を伴っているとみていい。秦の始皇帝は確かに中華統一を果たした。しかし韓の国の旧臣であり宰相の家系であった張良は、始皇帝の命を執拗に付け狙うのである。





 ・ところで五度勝つ者は破滅し、一度勝つ者は帝になると先にあったが。
 これを勝つ回数に比例して破滅していくと言う話に置き換えてみるとすると、この話は果たして本当だろうか。



 韓信や白起(はくき)は不敗の名将だったが、その実力を常に恐れられて二人とも悲惨な末路を辿っている。二人とも勝ち過ぎて敵よりもむしろ味方に恐れられた武将である。そうしてみると勝利数に比例して破滅するというのはどうもまんざら間違ってはいない。というよりむしろ核心を衝いているところがあるといえるだろう。
 敵ではなく味方によってというところが、勝つことのもたらす新たな災厄の一面を垣間見せている感じがある。



 項羽は韓信に会うまでは不敗だったが、会ってからは連戦連敗である。
 最強の武将だったはずが、韓信に追いつめられて最期を迎えている。



 一方、劉邦は戦をして勝ったためしはほぼ全くないといえるだろう。しかし成り行きから見事に帝となっている。
 そうしてみると、どうも全くあてずっぽというわけでもない。むしろこの言葉の言おうとしている方向性はかなり正しい。



 以上いろいろ見てきたが、「勝つこと」によって身を滅ぼす例は多いし、またその滅びる原因も案外妥当なものがあるといえるのではないだろうか。
 少なくとも、勝つことは手放しで喜べるほどいいことばかりではないし、マイナスなものを同時に多く背負う事でもある。
 その負の要因の重さによって、勝って滅んでいく場合があるということをここから学びたいところである。





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