孫子を読んで その9 「未完」の話







 どうも、兵法には流行り廃りがあるらしい。以前に書いたように、孫子の「略奪は合理的だ」なんてのはかつてなら大いに当てはまったものだろうが今もしやったならすぐにばれて国際的な非難を免れないだろう。
 また、例えば矛なり棒なりで上から下へ、高いところから低いところから振り下ろすとしたら勢いも加わって威力は増すし、それを下から受けねばならない側の負担は増す。それは確かに効果的な話だし、もっと言えば理に適った話だとも言えるだろう。逆に下から矛を振り下ろそうとしても、そこまでの勢いと威力は加えることができない。矛を持つ、という一点に関していえばこれは非常に正しい。



 「高きから低きを見下ろせば勢い破竹の如し」などというようだが、それはまさにこれを指していると考えるならば、馬謖(ばしょく)は全く正しいのである。山の上に陣取った。これは合理的かどうかといえば、全く合理的な話である。しかし馬謖は司馬懿によって山を包囲され、水を断たれた。そして火計によって手も足も出なくなった。馬謖からしてみれば矛を振り下ろすどころの話ではなかったのである。そして司馬懿からみれば戦うまでもなく馬謖が「兵法通りに」布陣してくれたために何ら苦労することなく街亭を取ることができたのである。




 そうしてみると、兵法は正解を80%くらい示してくれていると考えてよいだろう。合理的でありそれに従っていれば「結構」間違いがない。ところがこうして馬謖と司馬懿のようなことになる例もある。火計の前に水不足で、もはや矛を振り下ろすどころの話ではない。


 さらにもしもだが、雨季であって司馬懿が容易に火を使えず、使ったとしても大した成果を望めない場合なら、馬謖は水も断たれることなく火計も恐れることはなかったのではないだろうか。その意味では馬謖の布陣は誤りだから「絶対に」使ってはならないという事も出来ない。少なくともある程度の合理性と一定の価値は見出すことができるのではないかと思われるのである。





 今三国志のドラマ毎日見てるのだが、曹操はこう言っている。

 「兵法をよく学べ。

 ただし兵法に縛られるな」




 兵法の合理性というのは先に挙げたように高いところは力が加わり、下よりも有利であると。それでも火は高いところに上るという理もあれば、水は低きを流れるという理もある。

 街亭の戦いひとつでも力の理屈と火の理屈、水の理屈、三つの理屈がある。そうなると正解はこれらの組み合わせ次第だとも言えるだろうし、その時々に応じてベストで最も効果的だと思えるものを選んでやる必要があるとも言える。広い視野でいろいろなものを取捨選択することが加わっているし、気温や気候、時期なども考慮する必要はあると言えるだろう。




 それでも一番重要なことは、兵法は完成品ではない、「常に未完である」ということを忘れないことではないかと思えたのである。

 馬謖がグーを出したら司馬懿がパーを出した。

 しかし条件次第では、馬謖の行いは案外チョキになるかもしれない。



 そうして変わりゆくじゃんけんのように、ベストな答えは決して一定ではない。その意味で兵法は答えの方向性を示してはいるが、しかし正答そのものではない。常に未完であり、その未完の要素に、まるで臥龍点睛のように最終的に決めるための余地が常に残されている。そうした見方が必要なのではないか、と漠然とながら思ったわけである。



翌日の追記。
 兵法に従って歴史を読んでいけば、確かにレベルは上げていけるとは思う。兵法にしたがったらこうなった。その経緯を踏まえたらこうなった。その意味でレベルを上げていける要素は確かに兵法にはある。
 それでも最終的にその兵法を踏まえてそれを元にして飛躍するということが求められるように思う。普通の平地で飛躍するか、高い山の上で飛躍するかは全然意味が違うものになる。成長して、それを踏まえて単なる模倣をしたのでは破られる。打ち破られないために、そこで一体どのような飛躍をするのかが求められるように思われた。




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