孫子を読んで その6 縁の下に目をやる話
ここでは孫子の二章作戦篇のその6を参考にしている。
(ざっくりといえば、戦争は戦費がめっちゃかかるし食糧や武器を遠くまで送ることになるし、その間襲われたりもする、めちゃめちゃ効率悪いから、敵のところで奪うのがベストだよといっているくだり)
ここでの主眼は何かといえば、兵站(へいたん、補給全般のこと)は効率が非常に悪い、だから敵地で奪うのが効率がいいという話なわけである。この話をどのように噛み砕くか、料理するのかをここでの問題にしたい。
まず言いたいことは、ここを引用して「孫子は略奪に賛成していた」とするのは、それはどうだろうかということである。二次大戦でも日本軍は兵站が全然ダメで、行った先の各地でけっこう略奪したりしている。そりゃ補給はない食うものはないし現地にはあるとなれば仕方なく略奪をしたことはあったろう。略奪して凌げればともかく、餓死している兵士数もバカにならないときたものだから、まあ補給というものを最初から度外視しているとしかいえないだろうが、それはここでの本題ではないので省く。
問題は、「かの孫子兵法も略奪を肯定している」と引き合いに出す可能性はあるということである。で、実際確かに書かれていたりする。補給なんて効率悪いから、略奪するのがよいと。
では孫子は略奪を肯定しているのか、略奪はいいのか、略奪はいい方法なのか、認められているものなのか、このくだりはただ略奪万歳と言いたいだけなのかという話になれば、それはちょっと話が違うと思う。一応そういう話の立て方は可能であるし、不可能ではない。また恐らく近代以前の事情を考えるならばこれは非常に有効な話だったろうし、その流れを日本軍も引きずっていたのかもしれないし、全く無縁とは言えない。では現代ではどうだろうかと考えるならば、この現代において略奪をすることはまずないと言える。全くないことはないにしても、当時とは全然話が違っている。それを思えば、近代以前は◎だったかもしれないが、現代においては△になった部分だと言えると思われる。時代の流れを大きく反映しているものだといえるだろう。
しかしこの部分をそれも踏まえて考慮すると、眼前の敵と戦うというのは一見いかにも華やかなことに見える、しかしその裏で兵站があり、補給があるからこそ戦闘は成り立つといえる。つまり「縁の下の力持ち」がいるから戦闘も可能になっているわけで、華やかな面に気を取られてそうした地味な目線をおろそかにしてはならないということではないかと。
国があり、人がおり、食糧などを生産している。それがまずあってさらに補給が成立しているからこそ食糧を食べることもできるし、戦闘を持続することもできる。一騎打ちとか華やかな面ばかり見ているとそちらを見ることができなくなる。
おそらく孫子の主眼というのはこちらにあるのではないかと思うのである。そうした事情を踏まえると、そもそも国を窮乏状態に陥らせる可能性もあるし、夜盗に奪われる危険性もあるわけだから決して補給というものはいいものだとは言えない。だからこそ、略奪は国を守る意味で、国民を窮乏状態に陥らせない意味において「やむを得ない」ものとみなされていると。
そちらを見ろ、あるいはそれが結構地味だけど重要であるという目を持て、もしくはそれが断たれたら戦闘自体が成り立たなくなるほどの影響力があることを知れ、そのようなことに主眼が置かれているといえるのではないかと。
戦争したら敵城の一番乗りだったりとか、一騎打ちで誰それを打ち取ったとかそういうことが勲功第一となりもてはやされるわけである。しかし兵站線、あるいは退路をもし敵に断たれたら、食糧も武器も補給されなくなる可能性がある。
つまり、戦争は一種のやけど、その度合の激しさを表していると言える。大やけどもあればやけどが小さい場合もあるだろう。しかし兵站線は地味だけど人体でいえば頸動脈を押さえられるに等しい。
そうした優先順位がある。目先の事態の華やかなことに釣られて、そういう優先順位を見失ってはならない。
ということで、そうしたことを踏まえて初めて略奪の正当性があるのであり、孫子が「むやみやたらと略奪をしていい」という形での略奪の肯定をしているものではないのではないかという話である。
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