史記⑦ 孟嘗君(もうしょうくん)の事例にみる高尚と下賤の概念





 鶏鳴狗盗(けいめいくとう)という言葉がある。

 孟嘗君が秦に幽閉されている時に、盗みの得意なものが秦の妃の好きなものを倉庫から盗み出し、それによって妃の口添えを得る、そして館の包囲が説かれたために孟嘗君は脱出に成功した。

 ところがそうしてみると秦から追手が来る。一刻も逃げなくてはならないが、関所は「ニワトリが鳴かなくては開かない」、そこでニワトリの鳴きまねが得意な者が鳴きまねをすることで関所が開いた。そうして孟嘗君一同は難を逃れた。秦から逃れることに成功した。この話を元にして鶏鳴狗盗という言葉ができた。

 意味としては「ニワトリの鳴きマネをしたりして人を騙す卑しい者や、犬のようにして物を盗む卑しい者、策を弄する者」

 「つまらぬことしかできない下賤(げせん)な者」

 そうしたマイナスな意味から転じて、

 「取るに足らぬつまらぬ者でも使いようによっては役に立つこともある」という意味になったりもする。どうも現代になってみるとマイナスな意味合いで取られることが多く、良くてまあ「枯れ木も山の賑わい」程度にしか受け取られないもののようである。




 また宮城谷昌光氏が『孟嘗君』という小説を書いたときに、司馬遼太郎氏が宮城谷氏に「よくもまあ、孟嘗君などというつまらん人物をこんなに面白く書けましたな」と言ったという話を何かの本で見かけたことがある。孟嘗君は食客3000人を雇っていたとはいえ、特に基準があるわけでもなく思想や信条を元にしていたわけでもない。「鶏鳴狗盗」、盗みが得意だとかニワトリの鳴きマネが得意だとかいう人を集めていたというわけだから、そういう点は現代から見ると印象が良くないのかも知れない。学者や有識者に絞っていたら、「ああ学問好きなんだ」と見られて、印象はまた違ったものになっていたのかもしれない。




 ところで思想や信条というのは高尚なものだろうか。そりゃ高尚なものだろうし、思想のため、信条のため命を懸け、命を捨て、戦場に散っていった者は多い。そういう目線で現代を見てみると思想的な形に、自らの思いを並べることは言ってみれば常識の範疇になっている。「やりがい」「一生を懸けてでも成し遂げたい」「熱い思い」そういうことを並べるといかにも高尚な形にはまとまる。そしてそういう体裁を並べると確かに格好はつくのである。



 それと比較すれば盗みが得意だとか、ニワトリの鳴きまねが得意でニワトリを全匹騙してみせたなんてのは所詮一時しのぎでしかない。しかし、例え一時しのぎであっても孟嘗君、主君の命を救うにはその時点においてはもはやこれしかないと思えるほどに効果的であり、役に立つものであったとは言えるのである。その状況下においては、他の物事は役に立つとは言えなかった。重要性はあっても、その緊急性に応えるものではなかった。学問や思想はいくらあっても、武芸にいくら秀でていてもその代わりは務まらなかった。卑しかろうと、高尚であろうと、役に立つ立たないというのは、本来はそうした文脈とは別に成り立っているものである。



 そうしてみるとニワトリの鳴きマネは役に立ったろうが、同じように現代において思想や思いを語ることというのも、体裁を繕いその場を切り盛りする上では非常に役には立つ、しかし果たしてどこまで「それ以上の意味」を持ち得るものだろうかと思うと疑問を挟む余地は大いにあると思える。過去を顧みて鶏鳴狗盗を「卑しい」と言い、それと同じように我々は「思想を並べることができる」。イベントをクリアする為のカギでしかないし、それ以外に道がない、役に立ちさえすればそれでいいという「思想の氾濫」に見せかけた実際の「思想の欠如」現象が日本に広く広がっているように思えてならないのである。
 その時、我々の価値観と実態とは逆転しているのではないか。役に立ちながらも下賤であり、役に立たぬ、むしろ立たぬからこそ高尚であり、高尚なものはそう気軽に役に立ったりはせぬものであるという思考に囚われるものだといえるのではないか。







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