史記⑥ 西門豹(せいもんひょう)の話
2巻
西門豹は以前戦国策かなんかで書いたような。
http://www.kikikikikinta3.com/article/459242290.html?1569554420
文候という人がおり、鄴に赴任しろと命じられたのであいさつに出かけたと。そうしたら功績と名声を上げるいい方法を教わったというくだり。
そして西門豹は家々を見て土地を見る。黄河から水を引いて開墾すれば、一気に農地は拡大できると踏む。しかし鄴の方では古くからの因習が根強く、反発が強かった。そこで合理的な方法によって反発もなく土地の有権者を一掃し、治水事業、潅漑(かんがい)事業に取り組む。そして田に水を引くことで鄴は一大農業拠点となり、国力を増した魏は諸侯に認められることになる。
例えば三国時代にも曹操は魏を拠点とした、それはここ鄴の農業生産の向上と無縁ではないと考えれば、西門豹の功績が400年、500年も後の中国の情勢に大きく関わっていることが見て取れる。西門豹が果たして先見の明があったかどうかは知らないが、黄河から水を引くという発想がいかに妥当であり、また影響が大きいものだったか。よく実態を見ており、よく構想を練っていたことがわかる。
しかしそうした西門豹であっても人々の反発と無縁ではなかっただろう。というより抜本的な改革とそれに伴う反発のすごさというのは、後述するつもりだが呉起(ごき)や商鞅(しょうおう)といった例を考えて見れば一目瞭然である。それを踏まえるならば、西門豹もまた例外ではなかっただろうと考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%96%80%E8%B1%B9
これはウィキペディアをそのまま引っ張ってきたものだが、西門豹もその後は不遇であり、失意のまま魏を去ったことがわかる。改革者の必然というべきか。
「王者は民を富ませ、覇者は武を富ませ、亡国の君は庫を富ませる」名言だなと思った。
なぜ司馬遷は西門豹と呉起、商鞅を並べて書いたか。それは凄まじい業績を上げたはずの三人がなぜ不遇だったかのかを後世に敢えて知らしめる思いがあったに違いない。
西門豹は都の王の側近に賄賂を贈らなかった。そのため讒言によって失脚していった。
王のため、民のため。そのためにやることよりも重税を課して賄賂に充てた方が「うまくいく」、そのことが西門豹に失意をもたらし、そして魏から去っていった。せっかくの魏のための農業改革、治水潅漑も悪評の前には何にもならなかったのである。それこそ、王のためにやっている時はうまくいかず、賄賂を贈っている時には悪評が立たず、うまくいくといった有様である。
呉起もこれは同様で、いくら兵士に信頼され奮起させ、今までにない功績を立ててもあることないこと告げられてはどうしようもない。改革をし、楚を強くしても反発をくらい結局殺害され、改革は元に戻ってしまう。それこそ、この改革を進めていたならば秦よりも早く楚が国力を増し、天下統一できたかもしれないのにである。
そして商鞅は法による改革をした。たくさんの反発を受けて商鞅は捕まり、刑死する。ところが秦では商鞅の改革は残るのである。その偉業と遺産を継いだのが、たまたま始皇帝だった。そして秦は国力を増し、始皇帝は中華統一に成功する。
では魏はどうだったろうか。
なぜ西門豹が国力を増すようにし、その後呉起が出たにも関わらずなぜ天下を取れなかったのか。
なぜ呉起はその後楚に行き改革し、国力は増した、それにも関わらず天下を取れなかったのか。
そしてこれを踏まえて、なぜ秦は天下をとれたのか。
恐らく司馬遷はこの三者を、つまり魏、楚、秦であり、西門豹、呉起、商鞅であるところのものをこうして並べることで、それに思いを馳せるように敢えて仕向けている。
改革、というより悪いものは正し、いいものは伸ばすというのが大切だ、ということは何事においても基本的にある原則だと思う。しかし改革によって少なからず痛みを感じる人々がいる。また、改革によってその改革者が直接痛みを負うことは少ない。改革者がその結果として痛みを負うことになるのは多々あるわけだが。
そうしてみると、下の人々、兵士や農民にからの支持と上、つまり上司や君主からの支持と言うのはある。
例えば「張飛は下々の者に厳しく、上の者には媚びへつらった」、あるいは「関羽は下々の者には優しく、上の者や同僚には厳しかった」と陳寿は言っている。だから、「ふたりがあんな死に方をしても仕方のないことだ」という結論もあるのだが。事実張飛は恨みに思った部下に寝首をかかれ、関羽は孤立しても同僚が援軍を送らなかったために死ぬ。つまりそういう目線というのはあるわけである。
しかしそこにない目線、つまり西門豹が例えば賄賂を贈ってでも改革に突き進んだ、邁進した。あるいは呉起は賄賂を贈ってでも改革の支持を得ようとした、商鞅は法治思想を漸進的に進めようとした。
そういうワンクッションなりがあればあるいは少し違ったかもしれない。
賄賂、失脚、そういう失脚を避けるための一手。あるいはそうしたものを含んでの全体像。歴史を生かすということを考えるならば、そうしたものを把握し、自分の内に一応選択肢として取り込むことも一種の知恵だといえるかもしれない。少なくとも三人が歴史から消えるには、それだけの反発があった。理由があって姿を消した。そう捉えることは必要なことではないかと思えるのである。
この記事へのコメント