史記⑤ 伍子胥その2
引き続き伍子胥である。
前回伍子胥の話を書いたが、それは史記に最初から流れている「人の協力」という流れのひとつとして書いた。人の協力あって初めて開花できる人の能力や才能がある、そうした流れの一つとして、伍子胥もまた人の協力を得てその能力を開花することができた。
そして楚への復讐に成功する。ところが憎むべき平王はもう死んでいる。
その平王の死体を墓から引きずり出して伍子胥は鞭(むち)を打つ。
これは「死屍(しし)に鞭打つ」という言葉として残ることになる(意味は死んだ者の言動を非難すること)。
なぜこの言葉が残ることになったのか。伍子胥の怒りは凄まじいものであり、それは恐らく父と兄が殺されてから後変わったりしてはいないはずである。苛烈なものであるといっていい。それがいざ発現されてみると、伍子胥はこうして死体に鞭を打つという形で表現することになった。
伍子胥の怒りや恨みが凄まじいのはわかる。
それに平王は暴君で人々の信望を集めているとは言い難いものがあった。
しかし、それを踏まえても、まさかここまでしようとは……
そう人々は思ったに違いない。恐らくこれをきっかけとして伍子胥は人々の信望を失った。信望、つまり今まで協力したり伍子胥を陰日なたと支えてきた人々の心はこうして離れてしまったに違いない。
それどころかあれほどのことをした、残酷なことができる伍子胥に報いあれとさえ思ったかも知れない。「屍に鞭打つ」ということは、故事になり後世に残るほどのインパクトがあった。そうした流れがまるで物語の伏線のように伍子胥の行く末の暗雲となっている。
そして呉王の闔閭(こうりょ)は死に、夫差(ふさ)が後を継ぐ。次第に夫差に煙たがられるようになっていき、伍子胥は自決を迫られる。その遺体は墓に埋められることもなく揚子江に流される。伍子胥が死んだ後呉は衰退し、越が呉を支配する。まるで伍子胥と共に繁栄してきた呉が伍子胥の死と共に瓦解していくかのような印象がある。
しかしここで本当に司馬遷が言いたいことは恐らく、④と重複するわけだが、伍子胥が最初は不幸な境遇に陥り、様々な人々の目に見える、あるいは見えない協力を得て打倒平王として敵討ちを企む。
ところがその感情があまりにも苛烈過ぎて人々の心は離れてしまった。そして川に遺体を捨てられるような最期を遂げたとしても、それはもう何とも言えない。「あれだけむごいことをしたのだから、このような最期を迎えても仕方がない……」人がそう思うようなものがあり、その最期は妥当だと思われるような人生を伍子胥が歩んでいたことに他ならないのではないだろうか。こうして呉の栄枯盛衰は伍子胥の活躍と死に連動するのである。まるで伍子胥の霊が抜けた抜け殻が朽ちてゆくように、呉は脆くもあっさりと消えていった。
「日本の五月五日の端午の節句は中国では恨みを飲んで死んだ人の怨霊のたたりを鎮めるための厄除けの風習だという」
この節の終わりにはこう記してある。
即ち、楚を滅ぼすという念願叶わず、志半ばで死んだ伍子胥の霊を慰めるためのものである(可能性がある)、ということだろう。
しかし私が思うには、こうした事例として有名なものは他には三国時代の関羽以外にはない。
関羽は三国時代の呉に捕まり、処刑された。その後その軍を率いていた呉の呂蒙は急死し、曹操も急死した。これは関羽の亡霊が荒れ狂っているからだと噂され、関帝廟が各地に乱立された……
これを踏まえて伍子胥のことも考えられるべきではないだろうか。
伍子胥も同じであり、無念の思いを完全に晴らし終わったかどうかはともかくとして、屍に鞭打つという、そういう苛烈な行動で内心を示した人間は伍子胥くらいしかいないように思われる。そういう人間の、亡霊の「思い」がまた暴発することのないように祈るというニュアンスが強いのではないだろうか、と読みながら思ったわけである。
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