史記② 申生の話






 晋の献公(けんこう)の下には優秀な息子たちがいた。長男が申生(しんせい)、次男が重耳(ちょうじ)、三男が夷吾(いご)といったのだが、この三人はとりわけ優秀だった。しかし献公は、愛妃の驪姫(りき)との間にできた末子の奚斉(けいせい)を後継ぎとしたいと考えるようになるのである。今回ここで取り上げるのは申生の話。





 まだ後継ぎを誰にするかがはっきりと決まっていない状況で、献公は奚斉を後継ぎにしようとしているようだと申生に告げるものが現れる。このままでは殺害される、その前に申生は母親の生まれた地である斉に亡命すべきだと言った。しかし申生は取り上げなかった。


 その後、申生は東山征伐を命じられ大戦果を挙げる。これが申生の落ち度を荒探しし、排除する意図を持ったものであったが、申生は無難にこなしてしまう。


 そして驪姫は「あなたの母親がわたしの枕元に立ったから今度お参りしときなさい」と申生に告げる。申生は母親への祖廟に参り(墓参りし)、献公への供え物をして帰る。
 その供え物に驪姫が毒を仕込む。翌日、献公が食べる前の毒見で従者が毒によって死ぬ。申生はハメられたのである。
 献公は怒り狂い兵を出す。



 申生は言う。
 ・そうでないという証明ができない。
 ・父は驪姫なくしては食事もできない。この状態で真相を知ったら立ち直れないかもしれない。それは子としての行いではない。
 ・亡命したとしてこんな汚名をかぶっている者を誰がかぶってくれよう。
 そして申生は自害をする。



 孝行息子であり思いやりもあり実績も優秀。
 ところが一度ハメられると一切証明しないどころかあがくこともせず自害する。逃げも隠れもしないでただ黙って死ぬのみである。本当のことを知ったら父親が倒れるかもしれない、そうなると親不孝だと自害して果てる。
 愚直、馬鹿正直、思いやりがあり過ぎたがために自害した。
 これによって国は乱れ始め、留めることができぬまま、晋はこれ以後乱れに乱れることになる。
 申生は確かに孝子だったかもしれない。
 しかし「孝」を重んじ、親のことばかりを考えて国のことは考えていなかったということができる。いろいろな徳、徳目はあるといえるだろうが、孝>その他、これが過ぎてはまずいのである。
 




 ところでこれとそっくりな人物がいる。始皇帝の長男、扶蘇(ふそ)である。この申生の話から400年以上後の人物になる。
 宦官の趙高(ちょうこう)は始皇帝の遺書を偽造して、扶蘇に手紙を送りつける。手紙には「死ね」と書いてあるのである。扶蘇は何も考えることなく死のうとする。
 だがこれを読んで将軍の蒙括(もうかつ)はその内容を怪しむ。
 始皇帝は巡幸である。巡幸中に果たして息子の死を考えるものだろうか。仮に思ったとしても帰ってから決めるはず。
 それに蒙括は30万の大軍を預かっている(万里の長城を建設している)。裏切れば大変なことになりかねないその蒙括に預けたという事は始皇帝の絶大な信頼を表しているはずである。
 そもそもあの手紙自体が偽物であり、使者も偽者という可能性がある。 
 


 蒙括のこれらの疑いは全て正しく、的を射ているのであるが、扶蘇は聞き入れることなくそのまま自殺してしまうのである。これもまた扶蘇が優秀であり、孝子でもあったことが決め手になっていると言えるだろう。蒙括はその後処刑されることになる。こうして趙高の企みは成功し
、秦王朝は崩壊していくことになる。
 それを考えるならば、扶蘇はこの時点で唯一その崩壊を防ぐことのできた人物であり、それをすることなくおとなしく死ぬことで趙高の企みに加担したとはいえないまでも、その傍若無人な様を防ごうとしなかったことは重罪だと言っていいのではないかと思われる。この時点でもし食い止めるために動いていれば、そこで逆らって「孝」を汚したという汚名を蒙ったとしても、何ら問題はなかったのではないだろうか。



 「孝」というものは確かに美徳としてある。それは間違いない。親孝行をすることは確かに人としての美徳には違いない、しかしその美徳にとどまったがゆえにこうして国を滅ぼし、大乱を招く結果となったものが二人もいるのである。
 これを踏まえるならば、確かに「孝」は美徳だといえる。
 しかしもっと重要視されるべきものは他にもっとある。たくさんの人々のためならば、仮に「不孝者」の汚名をかぶったとしてもやらねばならないことはあるのではないか。そうした大きな徳の前では、「孝」というものはもう少し過小評価されてもいいものではないか。そうした優先順位や軽重を量るような行為は、もっと挟まれてもいいのではないか。少なくとも、何を差し置いても「孝」が優先されるべきということは間違ってはいないだろうか。
 そうしたことが見出されるように思うのである。



 これを踏まえてもう一度先の扶蘇の話を考察するならば。もう400年も前に申生が死ぬ事で晋には大乱が起きて国が割れて滅亡の危機に陥った。もしも申生が防ぐように努力していれば、そのようなことは起きなかったのではないかということは言えるように思われる。それは親不孝、反逆のススメに繋がりかねないようなものではあるが、そうしたことというのは歴史の教訓として多少なりともあってもよかったのではないだろうか。


 また、仮に偽者が入ったり騙されたりいろいろ事情はあったにせよ、親や人を信じるという事で重要なのは形式だろうか、実態だろうか。ここで重視されているのは形式だと言えるのではないだろうか。形式が全てというのは時代を考えれば仕方のないことではあるが、その形式を疑うことができればまた違っていたのではないかとも思える。
 つまり、まず形式がおかしいことを疑うことが全くなかったということと、そして「孝」をあまりにも重んじすぎた、このふたつに非があるのではないかと思われるのである。



 余談だが、晋では次男の重耳は逃げだして「死ね」という命令に対して逃げることで抵抗している。そうして例え「不孝者」の名を一時かぶったにせよ、生き延びることで春秋の覇者である「文公」となる。汚名を蒙ったとしても、汚名を雪ぐ(そそぐ)ことなど生きていればいくらでもできる。これは、そうした選択肢もないわけではなかった、というよりこういう例もあるといういい見本になるに違いない。



 扶蘇は親の名を騙る者に騙されて死に、秦は大乱に巻き込まれる。偽者にいいように騙されてあっさり死んだ扶蘇は果たして「孝子」だろうか、愚直に親だと信じ騙されて死に、大乱を防げなかった「愚か者」だろうかと考えるならば、恐らくは愚か者だという判断が妥当ではないかと思う。



 この話から何が教訓になるか。
 死ぬな。生きろ。「孝」だけでなく美徳に囚われるな。仮に汚名を蒙ったとしても生きていればそそぐことも可能であるが、死んだらそれは不可能である。
 そんなところだろうか。




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