孫子を読んで その2 「物差し」で測り、把握することの話




 で、前回の内容を踏まえての孫子の個人的感想である。個人的な感想なので、歪んでいたり我田引水的なところがあったり、孫子を実際に読んでみたりする上で障害となって読み進めにくくなったりネタバレとなったりするところもあったりするかも知れませんが、そういう可能性がなきにしもあらずですので気になる方はご自分で一読してから見られることをお勧めします。




 ①人というものの大切さ

 これは特に仕事上、社会的な意味での人というものに対して広く当てはまるように思われたのだが。

 12篇(孫子は1~13篇まである)が用間篇(ようかんへん)となるわけだが、この用間篇というのがつまり間諜の話であり、スパイ篇というわけである。

 間諜の種類が5種類あって云々とかいうことはここでは問題にしない。

 問題は、敵情を知ってこちらにもたらす間諜というのは非常に重要なものであって、君主たるものは民のために戦うのであるから、敵情という非常に重要な情報をもたらす間諜を手厚く扱わないのは不仁であるというわけである。優先順位がある、そしてその優先順位の最も高いものだといっていいその存在を手厚く扱わないのは、民に対する裏切りだといっていいのだと。こうして君主は民に対する責任があり、その責任を全うする上でも優先順位をきちんと設けるべきだ、間諜を手厚くもてなしこと、手厚く扱うことが重要であるというわけである。 




 これは別に間諜というものを外しても同じことは言えると思われる。つまり優先順位の高い間諜は確かにいなくても、その下はあるわけである。それはつまり、普通の企業とかでも別に事情に大差はないといっていい。

 人、というより従業員一人一人の社会的な影響力は一体どれほどのものだろうか。その人が働いて、給料を稼ぎ、家族を養い、個人的な趣味にお金を使い、そうして社会は回っている。企業にとっても味方ではあれど敵ではない。そうした存在を大切に扱わないというのは、これはどういうことだろうかと思うのである。過労やストレスによる自殺、死んでも代わりはいくらでもいる。むしろ死んでくれた方がライバルは消えてくれて都合がいい。実力があるやつほど自分の地位を脅かしかねない、だから社会に有益であるなしを問わず死んでもらった方がいい。そうしてこの社会は人を最低に近い値段で買い叩き、そのことは問題にならず、最低時給のことばかりが問題になる。いかに人を安く使うか、労働力をいかに安く買い叩くか、買い叩いていかに得をするかばかりが問題になる。企業と言っても営利を目的とするわけだから、儲けたいのはそりゃ当然とはいえるが、それにも限度というものがあるだろうと。海外労働者から奴隷を扱う国呼ばわりされるほどにこの国の労働環境は悲惨だし。そうした国になり果ててしまっている。

 人を、従業員を徹底的に酷使しボロ雑巾のように使い成果を目指すこと。それも常識の範疇に収まるだろうし、そもそも双方が納得して契約をしているといわれれば、そりゃそうだと言うしかないのだが。そもそも従業員を大切にできない社会はどうなのか、それというのは社会に対する企業の反逆に等しいといえるものではないのかということ、そして人を大切にできないということがもたらすのは孫子の説くところではないい、孫子の言う方向性とは一致するものではない。このことの意味と言うのは非常に今の日本にとって重いものがあるのではないかと思われた。


「人は城 人は生垣 人は堀」

これを詠んだのは徳川家康であるが、人がいかに大切か、人が万事の決め手であるというのは孫子に通じるものを感じるわけである。





 ②地の利とか将の道とか五事七計とか→人の目を肥やすこと

 どうして死地があるとか囲地があるとか、武将の性質や、道天地将法とかの見方があるのかについては詳しくは本編をお読みいただければと思うのだが(笑)。問題は、今前の前で起きている事態に対して人がその目を肥やすことがいかに重要なのかということである。おそらくこの孫子は始まりで会ってゴールではない。事態に対して基準となる物差しを持って見ること。そこから汲み取れる意味合いの量や数を増すという事が重要なのだと思われる。もしこの孫子という「物差し」がなくては、恐らくこの時代の人は他に有効な物差しを持ち得なかった。それこそ神頼みや占い、神の声、吉凶判断、そうしたものに頼らざるを得なかったはずである。

 孫子はそうではない、そこに「物差しを投入する」ことによって、事態の把握を図る。そして、それの良しあしと成長―後退を意識させるようにしたのだ。それは基準ではあるが、正解ではない。始まりではあっても、終わりを意味する物ではないのである。




 例えば13編の火攻篇において、「火による攻撃補助は明によるが、水による攻撃補助は強によるものだ」とある。火攻めをする判断は将軍の明敏さによるが、水攻めは軍隊の強大さによるものであると。水攻めは分断はできても戦力を奪い去るほどの決定だとはなり得ないと孫子は説いている。

 そして戦国期にはこの孫子が常識となっていた。これを踏まえて韓信は水攻めを行うのである。章柑(しょうかん)や龍且(りゅうしょ)といった歴戦の名将との戦いで、韓信は敢えて水攻めを行う。それはこの「水攻めはまあ決定打にはなり得ないよ」という当時の孫子を踏まえた常識、それを踏まえつつ覆す性質のものだといえるだろう。名将である、当然兵法は秀でており、まして孫子は当然知っている、だからこそ敢えて韓信は水攻めを行う。当然孫子の兵法を、そして水攻めを知っていただろう二人は、水攻めの前になすすべもない。韓信はこれによって一兵も失わず要害を手に入れ、また20万の兵士を一網打尽にすることに成功している。




 このようにして、孫子の兵法は答えを示しはしない。それを元にして、孫子を踏まえた目線で世の中を見て、四苦八苦しつつ応用するなり発展させるなりすることが重要だと思われる。






 ③把握し、発展させること

 これは②ともかぶることだが当時は神頼みというものがまだまだあった時代である。運否天賦は神次第、神が横ればサイコロで6が出るかもしれないし、運が悪ければ1しか出ないかも知れない。

 そういう人の生き様のまさに対極を描いて見せたのが孫子である。そうかもしれないけど、確かに運はあるんだけど、全く人が手のつけられないものばかりではないということ。じゃあそうして把握できるものは把握する。20点しか取れないなら21点を目指す、把握したのちにその要素をより良い方向性に置き換えていく。それは人のできる範囲内のことだといえる。ならば、その範囲内のことはしっかりやろうと。まさに「人事を尽くして天命を待つ」という感じだが、とにかく全てが全て神が支配しているもので、人が手も足も出ないもの……ではないということを孫子は説く。

 物事を見る。孫子という物差しを使ってとりあえず把握する。把握したのちに発展させる。ベストな手を考え、そして打つ。

 これが孫子の言いたいことではないかと思った。

 その意味では、この孫子という本は物差しチックな本だと思えた。だからこそ測っておしまいではなく、測ってからが始まりなのだということ、そうした形を把握し、いろいろな物事に当てはめていく姿勢こそが即ち孫子の兵法なのではないかと思った。








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