孫子を読んで 孫子てか兵法の妥当な位置について考えてみる

最近タクティクスオウガ書いてないですが、熱意切れではあってもネタ切れではないので笑



孫子を多分一週間くらいかけて徹底的にじっくり読み込んだ。恐らく本をこうした読み方すること自体あまりないことだなあと思いつつ。精読と速読を使いわけはしているつもりだが、本当に今回は熟読玩味という感じ。



「孫子は果たして役に立つのか立たないのか」恐らくこの質問に対する解答こそが待ち望まれているのが現代だと思うが、役に立つといえば立つし、立たないといえば全く立たないというのが解答になると思う。

例えば、火攻編とかあるわけだけど、現代はチャッカマンがあるしそもそも火攻とか

しないといえばまさにそれはそのとおりだと言える。用間編、つまり間諜編(スパイ編)だってスパイとかいないし必要ないしと言えばそれは全く正しい。

従って火攻編と用間編はいらない。

また最初の方だって「勢」についての解説話がある。勢の説明で弩を例に用いて話を噛み砕いていくわけだけど、いや弩なんて現代使わないじゃんといえばまさにそれはそう。要するに話が古いし現代には合わないねとすれば孫子を読む価値は全くないに等しい。

てはその逆はどうか。確かに孫子は話が古いけど、見るべきところには意味があるのではないか。だって、うちは田舎だから野焼きとかするし火攻編とか役に立つかもわからん(笑)そういう話だって一応成り立つといえば成り立つ。しかし恐らくそのどちらにせよ孫子を役に立てることがどうか、現実的に役に立つかどうかということに関しては恐らく答えを出せないに違いない。

例えば包丁などがこの話のいい例になるに違いない。確かに魚も肉も切れる便利なものだが、人も刺せる。人を殺める殺傷能力を有するならば、これは有害である。包丁禁止令を出すべきだ。これがオカシイと言えないところが現代らしさだろうが、まあそういう話も成り立つだろう。

孫子もこれは同様で、戦車があり銃がある時代に弩とかあってどうなるの、役に立たないからムダだといえば確かにそれは正しい。

しかしまさにこの包丁のように、肉や魚を切るという本筋さえ外れなければ、孫子も同様な切り口を持って有用に働くだけの力はある。そういう印象である。




じゃあちょっと取り上げてみるかと広げてみて、座禅のススメとかがまたあったりするものだから困ったものである。役に立たないわけではないのはともかく、役に立つのがなぜ役に立つのかの理由がまた奇妙なところに落ち着いてしまいもんだからたまらない。

包丁で表すならば、包丁は野菜や肉が切れるんだから石も切れるだろみたいな話である。いやそりゃ切れなくもないだろうが、でもそれは本質じゃないよね?という話になる。要するに孫子というものの本質とはなんぞやというのは定まらないし、定まったかと思いきや全く奇妙な場所に落ち着いてしまっている。



だからこそ必要なのは、孫子は

①役に立たないことはないという段階があるのはわかった。

その次として、

②役に立つこともわかったとなっている。

ところがそのまま奇妙なことに孫子の本質を無視したままテキトーな話が孫子の名を騙った上で展開されている。こうした状態を改めて、

③孫子に対する見解を妥当な位置に持ってくる

こうしたことが必要なんじゃないかと思う。



包丁買ったからには使う側には自由がある。肉や魚も切るし石も切る。それは結構だが同様に、いくら読者には読書の自由があるからって、孫子を使って放火のススメとか殺人のススメなんてことを書いたりはしないはずだし、するべきではない。いくら自由だからといって、本質を外さないという一定のルールはあって然るべきものだと思うからである。



くどくどとつまらないことを書いてるが、なぜこんなつまらないことをわざわざ書くかって自由の名の下に曲解し、利用し、我田引水しようなんて意図はたくさんあるし、孫子がそうしたものと全く無縁だと思えないからである。いわゆる孫子ビジネス的なものまであると言っていい。

せっかく孫子を読んだんだから、原本とその本筋を外さず、かといって孫子ビジネスで孫子の名を語らったものを一つ一つ批評していけたらおもしろいのではないかと思っているところである。

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